
恒久平和の道を貫いた孤高の生涯
――「15年戦争謀略の火付け役」という「戦犯」評価の中で――
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石原莞爾の評価は、没後(1949年)60年経とうとしている今日においても、定まるところを知らない。曰く、「満州事変謀略の主犯」「15年戦争火付け役の戦犯」、一方、「軍服を着た共産主義者」「狂信的法華信者」の評があるかと思えば、「信仰に篤い哲人参謀」などさまざまある。また近年、対米戦を意識した「世界最終戦論」は、日本はおろか世界を震撼させたオウム真理教のサリン・テロ攻撃の口実にも利用された。
一体、石原莞爾とは、どういう人物で、どんな思想の持ち主だったのか? 当時の関係者がほとんど居なくなってしまった現在、戦後世代のわれわれは文献によってしか、その真姿に迫ることはできない。しかし、文献に残る数々の証言を精査していくうち、戦後つくられた上記のようなマイナー像は、全くの虚像であったことが次第に明らかとなってくる。本HPは、その一端をご紹介する意図で作られた。
まずは、戦前、石原莞爾の上官であり、数少ない石原の理解者の一人だった東久邇稔彦(ひがしくに・なるひこ、戦前は皇族=本土防衛総司令官=陸軍大将、戦後初代の総理大臣)の弔辞をご紹介したい。石原莞爾の生涯のエッセンスが語られていると思う。
元総理大臣 東久邇稔彦
「弔辞
石原の冥福を祈ると同時に、私は彼の霊前に人類世界の恒久平和を祈りたいと思ふ。
世界の恒久平和こそは石原の一生を貫いた精神であり努力の眼目でありました。彼の悲願であったと信ずるからでもある。
彼の生前の言動を想ひ起こすとき優れたる頭脳よりほとばしり出る言葉には、特に歯に衣を着せざる直言また常人の及ばざる 烈しき行動も希ではなかった。
しかしその底には、常に変らざる優しき心と慈愛の涙が流れていたのである。
幽朋境を異にすると雖も彼の霊は同じ悲願を抱いて天駆けてゐることであらう。
世界の恒久平和に対する彼の熱烈なる信仰と努力、また極めて簡素清潔であった彼の生涯こそは永へに萬人の範として仰がれるに價するであらう。
翻って想ふに、今や我國は非武装の國となり我々は身に寸鐵を帯びず、しかしその故にいさゝかの偽りもなく術策も交へずして最も公正に最も熱烈に世界平和人類社會の恒久平和を主唱し得る地位に置かれたのである。これは無上の幸福と言はねばならない。
また、斯く考へ得る者にして初めて平和の旗手と言ふに價するであらう。
我々はこの光榮、この幸福なる使命を自覺して愈々努力し世界の恒久平和の樹立に貢献して行きたいと思ふ。
願わくば石原莞爾の霊よ、安らかに瞑すべし。
昭和二四年八月十五日」
<エピソード>石原莞爾の諫言
かつて石原莞爾は、2歳上の上官の東久邇宮稔彦(1887〜1990年)に対して、小磯国昭内閣倒閣直後(1945年4月)の「国家存亡」時、救国内閣の首班となるよう懇請したのにも拘わらず、東久邇宮が拒絶したため、彼を「二千年の皇恩を辱(かたじ)けのうして日本を滅ぼす不忠の臣である」と決めつけ、以来「絶交の仲」となった。
また、石原の「不忠」発言は、もう一人、蘆溝橋事件(1937年7月)の処理に当たり南京へ飛んで蒋介石との直談判で戦線不拡大と和平実現を躊躇(ちゅうちょ)した3歳下の公爵・近衛文麿首相にも放たれている。
国民意思の統一に皇族・華族が占める絶大なる力を認めていた石原だったが、その反面の皇族方の「余りの非力」に忸怩(じくじ)たる思いを抱いたのも事実である。
1945年8月17日、第43代の総理大臣に就任する東久邇宮より、石原は内閣顧問の就任を要請されたが、「病弱」を理由に固辞している。8月28日、東久邇宮が記者会見で、「敗戦の原因の一つは国民の道義の欠落にある」と述べた発言は、言うまでもなく、石原莞爾が東亜連盟の集会で語っていた「国民道義の低下」論を仮借したものである(同年10月、皇籍離脱)。
なお、東久邇宮は「終戦処理内閣」として降伏文書の調印や陸軍大臣を兼務しての陸軍解体など、敗戦処理を行なったが、GHQ(連合国総司令部)から10月4日、一層の民主化政策の実行を迫られると、それに不満を表明して、総辞職した。在任期間の54日は、内閣史上「最短命(年8月17日〜10月9日)」に終わったが、102歳の長命は、世界の首相経験者としては唯一の「最長命」人物として『ギネスブック』に記録されている。

「終戦処理内閣」として成立した東久邇宮内閣