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新約聖書の歴史から
          
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「・・・この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

マルコによる福音書14章8,9節
聖書: (c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

「女の注油・キリストの葬りの備え」(*1マルコ14:3-9)

ヨハネは、ベタニヤでの会食が「過越の祭の六日まえ」(ヨハネ12:1)だと明記している。マルコが、時間の前後をずらして、あえて「イエスがベタニヤで、・・・おられたとき」とだけ記してここにこのエピソードを挿入しているのは、祭司長たちがイエスを殺そうとしている計略があることに関係させようとしたためかもしれない。「あらかじめ葬りの用意をしてくれた」という一言が、このときの雰囲気を表している。

もともと、イエス・キリストの一行がエルサレムに近づいてきた段階で、弟子たちは「驚き怪しみ、・・・恐れた」(マルコ10:32)と書かれていた。それが、大群衆に盛大に迎え入れられて(マルコ11:8,9) 、少しほっとしていたかもしれない。さらに、祭司長、律法学者、長老たちも、イエス・キリストとの議論でやりこめられ、群集たちはますます喜んでいたのだから。

ぶどう園の譬話を聞いていて、「愛子」が殺され、ぶどう園の外に投げ捨てられた箇所に、弟子たちは何を感じ取っていただろうか。祭司長たちは、その譬が自分たちに当てて語られたことを悟ったのだったけれど。

さらに、小黙示録の最後、「旅に立つ人」が僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせる話。弟子たちは、自分たちのこととして受け止めなかったか。過越しの六日前なのだから、実際には、小黙示録が語られる直前に、この会食が行われたのだろうと思われる。そこで、葬りの用意という、死を直前に控えていることを想起させる言葉が語られたのだ。

「らい病人シモンの家」という表現がマタイ、マルコ共にしている。ヨハネがラザロや、マルタ、マリヤの名をあげているのとは対照的。ヨハネが、おそらく関係者がすべて召天してから書いたのとは違って、マタイやマルコの福音書は、そうした人々がまだいる時代だったかもしれない。マルコが弟子たち以外に実名をあげているのは、教会において責任ある立場にあった人たちだったのではないか、と思う。それ以外は、ひかえていたのではないか。「シモン」は、イエス・キリストの癒しを受けた人でやはり責任ある立場になった人だったのではないか。シモンがマルタ、マリヤ、ラザロの親であった可能性もあろう。

非常に高価で純粋なナルドの香油。旧約聖書では雅歌にだけ出てくる名前。「王がその席に着かれたとき、わたしのナルドはそのかおりを放った。」(1:12) 新約の時代のナルドと同じ物なのかどうかわからないけれど、雅歌では葬りのための用途で使われているわけではない。王にまみえる王妃の たしなみであった。

女は、香油のつぼを壊してしまって、香油をイエス・キリストの頭に注ぎかける。なんとも潔い行為だけれど、なぜそのようなことをしたのか。

イエス・キリストが「わたしの葬りの備え」とおっしゃったけれど、女は間近に迫っているイエスの死を知ってこのようにしたのか。繰り返しイエスが語った予告を、多くの弟子たちは認めず、ただ恐れ、尋ねることすらしていなかったのに。つぼを壊してまで油を注ぎつくしたやり方は、ささげつくす態度として受け止めれば、決して後戻りはしないという決意ある献身を指す。もしマリヤがイエスの死の予告を信じて、葬りの備えをしたのだとするなら、復活の予告をも信じたのではなかったか。ラザロの復活の際に重ねて語られた「わたしはよみがえりであり、命である」を、マルタから聞いて信じていなかったか。神の御子イエス・キリストに対する信仰の告白、さらにまったき献身の証しとしての油注ぎと考えるのがもっとも可能性が高いと思われる。

「ある人々が憤って互いに言った」。ヨハネはユダが直接そう言ったと書いているが(ヨハネ12:4)、他の弟子たちもユダに同調して憤っていた様子がわかる(マタイ26:8)。なぜ、「憤って」までして、声高にきびしくとがめ、非難する行為に出たのか。マルコは、その原因(罪)について語る部分(ヨハネ12:6)を割愛し、ただ「するままにさせておきなさい」という点だけに注目し、そちらを書き留める。

(1)女をとがめる正しい理由があるのか。(2)イエス・キリストに対してよい事をしているという評価。(3)イエス・キリストがこの世から去ること。(4)女は、イエス・キリストに対して、今できる最善のことをした。(それが油を注ぐことであって、葬りの用意であった。)

今の時を生かして用いなさい、という言葉が思い起こされる。今このときでなければできない、最善の事がある。できる限りのことをしようとする態度のうちには、やはり限られた時の中での、また限られた人生、あるいは限られた能力の中で、それを積極的に生かそうとする精神がある。女にしてみても、この香油は、自分の結婚の備えであったのかもしれない。もともと抱いていた目標とは違った「用いられ方」が、今突然に現れた時に、しかもそれが、イエス・キリストのためにという目標である時に、そこにすべてを注ぎつくす潔さがあるか。

さて、ヨハネは、弟子たちの足を洗ったイエスを思い起こしながらだったのか、油を足に塗り、自分の髪の毛でそれを拭いている様子を描写する。マルコはマタイと共に、頭から油を注いでいることに注目して書いている。マリヤが「キリスト」を告白する象徴としての油注ぎであったかもしれない。「キリスト」は「油注がれた者」。

女は「メシア」の任職の油注ぎだとは微塵も思ってはいなかっただろうが、結果として、まさに今から贖いのみわざを成し遂げようとしているイエス・キリストに油を注いだ人となった。(ルカが記している香油を注いだ女が別の人物なら、二人の証人にメシアとして油注がれたと言えるかもしれない。) イエス・キリストが「全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られる」と宣言なさったのは、女の献身を賞賛するだけのことだったものではない。任職の油注ぎをした行為として、語られるべきものだろう。

このあたりから、イエス・キリストに従ってきていた女性たちに比べ、12弟子たちの面目はまるつぶれ、といった感がある。イエスの十字架刑の際に、その場所にいたほとんどが女性であったし、墓に積極的に出かけていこうとしたのも女性たちだった。その結果、復活のメッセージを最初に受けたのは女性であり、12弟子たちは、疑うことに長けていた事実が暴露されてしまう。

2010/1/18

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[47]マルコ14:1-9;デボ( ..)φ

イエス・キリストが、一歩一歩その死に近づいてきている場面。これらのエピソードを丁寧に読んでいきながら、キリストの死の意義がどんなに大きいものであったかを受け止めていきたいものです。

イエスを殺そうとしていた集団の計画は、「祭の間はいけない」というものでした。宗教指導者たちがあくまでも念頭においていたのが、民衆の動き。神がどのようにお考えになっているかに、全く無頓着です。でも、神のご計画は、この過越しの祭りの時がキリストの死の時でなければならない、というものでした。そして、実際に、宗教指導者たちの思いとは裏腹に、突発的にイエス捕縛へと事は進んでいきます。神の小羊が、犠牲としてささげられるべき時なのです。

イエス・キリストの死の意義の大きさを表すエピソードが挿入されます。一人の女が、ナルドの香油という、非常に高価な香油をイエスに注ぎかけるのです。石膏のつぼを壊して頭に注ぎかける、という、これ以上に潔くはできないだろうというやり方で。一人の女性にとって、高価な香油がどんなに大切なものであったか、想像できるでしょうか。はっきりと言われているわけではありませんが、決して裕福な地域に住んでいる人ではありません。もしかしたら、一生に一度の結婚式のための備えだったかもしれません。それを、注ぎきってしまったのです。300デナリといえば1年分の仕事の報酬です。いったい、何年かけてためた物だったのでしょうか。

この女は、イエス・キリストが死を直前にしていることを悟って、今この時にしかできないことを、やり遂げたのでした。イエス・キリストの死を恐れ、神の国を建てあげる運動が失敗に終わるのではないかと、戦々恐々としている弟子たちは、この女のすることに対して批判をするだけで、いまこの時に自分が何をすべきかを、全く知らずにいた、というのに。

私たちは、イエス・キリストの死が自分に及ぼしている影響の大きさを、どれほど理解し、受け止めているでしょうか。何年分もの労働の報酬を少しずつためてきていたものを、すべて注ぎ尽くした女は、神の御子イエス・キリストの絶大な価値を知って、それに比べたらどれほどのものではないと、ナルドの香油を注ぎきったのではなかったのでしょうか。

いつか、なにか、イエス・キリストのためにできることをしよう、ではなく、今この時でなければできない、最善のことを、ささげるようにすべきではありませんか。どれだけのものをささげるかは、どれだけのものをもっているかによるのではないのですね。私たちがささげるべきお方が、どれだけの価値を持っているお方なのかという認識しだいだと言えるでしょう。そして、そのお方が、「私」の罪のために死に渡されるのです。「罪」がどんなに大きく深いものであるかを、逆に悟らされる出来事でもあるのです。この「罪」が、まだ多くのことを覆っていて、なすべきことを妨げてはいませんか。

2010/1/21

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*1マルコ14:3-9
3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。 5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。 6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。 7 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。 8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。 9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。 本文へ


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