出張城(でばりじょう)

 場所  広島県安芸郡府中町宮の町
 標高  34m
 比高  25m
 城主  白井氏  
 別名  府城・国府城・芸府城  



余湖さんのHPから引用

  

出張城の全景                                  クリーニンング屋と住宅地の間を抜けていく

  

山の麓に看板がある                              3郭は畑になっている

  

郭はこのような有様                              上にあがって最初の平削地(小さな郭)

  

主郭に上がる前の風景(向こうに見える山が仁保城)           主郭(見通しは悪い)
仁保城には庶流の白井氏がいた
  

主郭(手入れされていない)                           3郭にあった白井加賀守親胤の墓


補足画像
          

鎌倉時代は出張城のところまで海であったが徐々に陸地化が進み、戦国時代にはかなり西まで陸地になる
水軍の性質上、出張城が内陸になってしまった為、庶流が仁保城を築きここを拠点とする

現在では画面にある海の部分は全て陸地かされてしまっており、仁保城(中世は仁保島であった)も1640年頃には
干拓され陸地化されてしまい、当時の姿を想像で出来にくい。




小さくて見にくいが今の広島旧市内は全て海であった、今は内陸にある山城も中世以前は海近く河口付近にある海城で
水軍の城であった事が分かる

温品の永町山城、矢賀の多々万比城、戸坂の戸坂城、己斐の己斐城、草津の草津城、五日市の海老山城、廿日市の桜尾城などなど

今では内陸部でまさか水軍と思われないような安佐南区川内が中世の安芸国守護武田時代には水軍の拠点であった
八木城や恵下山城なども水軍の性質を有していた。


出張城
出張城2


白井氏
白井氏2



概要
城跡は東から延びる丘陵先端のピークにあったが、現在は宅地化により、独立丘陵のようにみえる
1郭は30m×25mの規模を持ち、南下に現在墓地となっている2郭(10m×10m)がある
2郭の西下に25m四方の3郭、南下に4郭(21m×17〜11.5m)がある。
3郭と4郭の段差は1mで、ともに畑として利用されており、3郭南郭には五輪塔がある。


広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用


出張城跡と白井氏

出張城跡は、室町時代中頃の応永年間(1394〜1428)に下総国から安芸国に移り、瀬戸内水軍となった白井氏の城跡と伝えられている。
出張城の呼称は、現宮の町一丁目と同三丁目堺の古山陽道沿いを出張市と呼んでいたことから、
字名にちなんで近世に命名されたものと思われ、中世の史料には府城・国府城・芸府城などと記されている。
城は本丸を中心として数段の郭を設けているが、現在では出張城は一族の拠る仁保城(広島市黄金山)とともに広島湾頭において銀山城の防禦線の役割を果たしていた。
ところが周防大内氏の支配権が及んできた大永年間末(1527)にはその配下となり、佐東郡牛田・山本などに領地を与えられ、海上でも一層活躍している。
しかし天文20年代以後(1551〜)は次第に毛利氏に領地を奪われ、活動の拠点もこの地から離れていったものと思われる。

看板より



家系図


白井胤時--白井治胤--白井忠胤--白井親胤--白井光胤--白井膳胤--白井房胤
                                              |
                                              +---------白井賢胤
                                              |         |
                                    熊谷元直---熊谷元直女    | 
                                                       +----------白井晴胤
                                                       |          |
                                            乃美賢勝-----乃美賢勝女    |
                                                                  +-----------白井景胤
                                                                  |      |
                                                     江良房栄-----江良房栄女  +-白井元胤



備中守白井家越中白井家について
古文書には備中守となのるものと、越中守を名乗る家がある

出張城にいたのが本家白井家である備中守白井家

そのうち不便なので仁保島へ一族を配置する(分家白井家で越中守白井家となる)
備中守白井家も千代城を築城する)
1527年に大内氏が武田攻めで安芸国進入
仁保城の越中守白井家は降伏して大内の傘下に入る出張城の備中守白井家は武田と伴に徹底抗戦で大内氏を迎え撃つ
1541武田氏滅亡
出張城の備中守白井家は大内氏に降伏する、ここで出張城から撤退して千代城に入る
がしかし、結局は毛利に滅ぼされる
1555年仁保城の越中守白井家1555年の厳島合戦前までは仁保城にいたが、毛利が陶氏と戦うために仁保城を攻めて結局は大内氏の所領である宇賀島へ逃げる(そこで大内水軍の総大将になる)
その後、毛利家に降伏して小早川隆景の配下となり活躍する(白井氏当主の母親が乃美氏で小早川家と親戚であった為)
関が原の後は萩に行く

本家は備中守白井家と思いますが、滅亡してしまった為詳細は不明、分家筋の越中守白井家が萩に行き存続したために
現在ではこの系統が主として語られる

注:ただし、越中守白井家7代目(白井房胤)は毛利に攻められて自害しています(おそらく1555年前後の戦で無くなったのでは?)
出張城の近くに首を洗ったという尾首池というものがある。


1499年の文章に白井禅正太夫元胤の名がある
明応八年(1499)の史料に出てくる白井禅正太夫元胤ある
この史料は、そのころ幕府権力とそれに結びつくことによって勢力を維持していた守護武田氏、その家臣であった熊谷氏、そして実力的にはともかく、なおも幕府の意向に左右されざるをえなかった国人領主毛利氏の関係をよく示す史料の一つである
「明応八年三月六日武田元繁外九名連署状、毛利家文書166」より

武田元繁外九名連書状
上位御窺之事、并内部庄伊豆守(武田元信)一行之儀、急度遂注進、可申達候、聊不可有無沙汰候間、以連署申入候、猶委細吉河(経基)殿へ申候

「明應八年」三月八日         (武田)元繁
                   品川左京亮膳員
                   
香川美作守質景
                   今田土佐守國頼
                   壬生源蔵人太夫國泰
                   山中丹後守宗正
                   白井禅正太夫元胤
                   中村修理進質茂
                   熊谷民部丞膳直
                   戸坂三河守
信定

                            毛利冶部少輔殿

この文章の大意は「上意御窺事」(毛利弘元の内部庄の支配権を将軍に認めてもらうこと)「内部荘伊豆守一行之儀」(それに武田元信が同意の文章を出すこと)の二点について武田元信に申し入れることを、武田元繁以下の諸将が毛利弘元に連署で約束するというものである
この当時安芸国守護の武田は本家である若狭武田氏の指揮下のもと動いているにすぎなかった、つまり各国人も本家である若狭武田家の武田元信については主として仰ぐが、安芸国の守護職にある武田元繁には大きな力が無くその為、連署によって毛利弘元に対する約束をするという事になる。
更に、安芸武田氏権力の特質は、なによりもこの史料に明らかなように、安芸在住の武田元繁が、惣領武田元信(若狭国守護で本家に当る)の規制にあって一個の領主として自立できていない点にある。この毛利氏への約束が、武田元繁一人の署名では不十分で、品河氏以下戸坂氏までの諸将が連署しなければ安芸武田氏の全体意志が表現出来ないのである
連署した人々は本家武田元信(若狭国守護)の家臣であっても、武田元繁(安芸国分国守護)の家臣では無かったということを如実に示す史料ではなかろうか?
つまりこの当時から安芸国守護の武田家に大きな権力も無くそれが国内の統一が出来なかった一因である
そのような中で白井禅正太夫元胤は安芸国の諸将の中でも重要な地位にいた事はこの文章を見ても確実である

家系図上でこの白井禅正太夫元胤を比定する人物は不明であるが恐らく本家である備中守白井家の人物であろうと推測される


歴史
応永年間(1394〜1428)に白井親胤が築城したとされる
室町時代から徐々に独立性が無くなっていく最終的には安芸国守護の武田氏の勢力下におかれる
1470年:この頃には大内の方に加担するようになる
1475年:武田氏と和解してまた、武田の勢力下に組み込まれる
1495年:白井光胤が武田元信より所領を安堵される
1522年:弘中興兼が城戸口に押掛ける
1526年:大友軍の援軍も駆けつけ大軍になった為、武田氏家臣2名の切腹にて降伏、開城
しかし、すぐに武田に寝返る
1527年:また大内軍の攻撃にさらされる
(この時庶流の仁保城城主白井膳胤は降伏するが、出張城の白井越中守一派は抵抗して一族が分かれる)
1541年:武田氏滅亡の為、出張城にいた白井越中守一派も出張城から退城した(千代城に移る)
ここに本家当主の備中白井家における出張城の歴史は終わる
1554年:厳島の合戦の前哨戦である仁保島合戦において、陶軍の配下であった白井房胤は毛利軍にやぶれ仁保城から撤退し出張城に移る
1555年:厳島合戦の後に毛利に降伏し小早川隆景の家臣となる(その後は小早川水軍の将として活躍する)
1558年:千代城にいた備中白井家(白井万五郎)が毛利に攻められて滅亡する


感想
・最初城の裏からよじ登ったのちに別の入口(大手)があると思い探してなんとか見つけた
・比高は高くないが、鎌倉から南北朝時代の城はこのようなものであった(吉川の駿河丸城、熊谷の伊勢が坪城、温科の永町山城など)
・当時はこのあたりまで、海であり白井氏はこの付近を通航する諸船から勘過料を徴収する権益を有していた
・本来は備中白井家が本家であったが、あくまでも武田氏に従った為、武田氏滅亡と伴に勢力を失う
・そこで分家筋で仁保城城主であった越中白井家の勢力が拡大するがこちらも陶氏についた為、厳島の合戦以降は勢力を失い
結局は親戚関係であった小早川隆景の家臣となる
・城域自体は広くは無く、主郭と麓に数個の郭があるだけであるが、「国郡志下しらべ書出帳」によると城の北側も城域であったとされる
・隣になる長福寺は平安時代からの続く田所氏や一族の三宅氏の菩提寺であるが、白井家の菩提寺であったとも伝えられる  
・本丸からの見晴らしは良くないが、少し下がったところの墓所からは若干一望できる、遠くには仁保城(現在の黄金山)も見える