Jordan博士のこと      On Dr.Jordan

(Trans. R. Ent. Soc. Lond., 107, 1955 より)

Karl Jordan (1861-1959) は,ドイツ生まれの英国の昆虫学者である.ノミ類についてはN.C. ロスチャイルドとの共同研究を含めると75新属379新種を記載しており,ヒゲナガゾウムシ科にいたっては145編の論文を書き,約150新属1900新種を記載している.これらに他の甲虫や蝶,蛾の論文を加えると460編以上にも達する分類や分布,進化に関する論文を書いている.また,研究のかたわら国際昆虫学会や国際動物学会等の会長などの要職を長い間務め,その後も名誉会長になっている.

1861年12月7日ヒルデスハイムの南のアルムステット村の農家に生まれた.
1882年ゲッティンゲン大学に入学.1886年,学位(動物学・植物学)を取得.
1891年10代の頃から愛し合っていた女性とやっと結婚.

1893年トリング博物館(英国)に招聘される(32歳).
博物館で14時間か,それ以上を過ごすこともしばしばだった.夕食後にはたいてい妻が側にいて,標本のラベル付けを手伝った.ドイツにいる家族のもとへは1年おきに1週間ほど帰省するだけであった.
1911年英国籍を取る決心をしたが,自分の生まれた国に対して健全なしかしいくぶん甘い感傷的な愛着は捨てていなかった.幸福な子供時代の光景,楽しかった恋愛,その背景には質素だが心満たされる農場での生活があった.しかし知的な点では英国の方を好み,とりわけ英国の生活様式を好んだ.
1914-18年の戦争はほとんどの科学者にとって打撃であったが,彼のような真の国際感覚を持った研究者にはことに不幸であった.トリングのような小さな田舎町でさえ外国人に対する侮辱の言葉が飛びかい,日常生活は困難で,時には苦しく不愉快なものになったが,妻をますます意気消沈させてはいけないと耐え忍んだ.
1916年,チャールズ・ロスチャイルドの看病のためにスイスに行くことにしたが,その間仕事からも家庭からも離れなければならなかった.2年後に帰宅すると,不幸にも妻は病気になっており,健康を取り戻すこともなく,妻は1925年に帰らぬ人となった.
彼の仕事机は,文献や走り書きしたメモ,未整理の標本が入った容器やヒゲナガゾウムシがぎっしり詰まった標本箱などでごった返したその下に顕微鏡やタイプライターや描画道具が埋もれかけていて,彼が混乱と無秩序の人であるかのような印象を与えていたが,実は彼は,むしろちょっと乱雑にしていることを楽しみ,自分の机の眺めに刺激を感じていた.また,ひどく毛だらけになったペンと半分干上がった瓶のインクと,割れて見るからに使えそうにもない定規で完璧な図を描きあげることに喜びを感じていた.
彼は仕事が速く,ヒゲナガゾウムシの1新種を記載するのに平均16時間かかると自分で見積もっていた.
英国の友人達にとって,彼の強いドイツなまりは年月が経ってもまったく直らなかったのが彼の魅力の一つだという.

彼は93歳になっても顕微鏡に向かい,自分でスケッチし,難解な属 Stenoponia の分類学的再検討を行っている.


                       引用文献

Hopkins, G.H.E., 1955. Bibliography of scientific publications by H.E.K.Jordan.
     R. Ent. Soc. Lond., 107: 77-94.
M. R., 1955. Karl Jordan - A biography. Trans. R. Ent. Soc. Lond., 107: 1-9.
Zimmerman, E., 1955. Karl Jordan's contribution to our knowledge of the anthribid    
     beetles. R. Ent. Soc. Lond., 107: 67-68.

Karl Jordan (1861-1959)

Research Center of Anthribidae