
月が綺麗ですね
二人で帰る夜道。
ぽっかりと淡く浮かび上がる月を見上げて、白い息を吐きながら山本が言った。
「ごくでら……。月が、綺麗だな」
しんとした夜道に静かに通る山本の声は、寒さの所為か少し上擦っていて。
オレはつられるように、マフラーに深く埋めていた顔を上げて月を見上げた。
アイラブユー、を。
彼の文豪、夏目漱石は『月が綺麗ですね』と訳したと、聞いたことがある。
そんなことを思い出して、口元だけで小さく笑った。
山本の言葉に今、そんな意味はなかっただろう。
文豪でもないオレたちにとって、月が綺麗だなんて言葉は「今日は寒い」とか「肉まん美味い」とかその程度の感想だ。
そもそも山本は、夏目漱石がアイラブユーをそんな風に訳したということさえ知らないだろう。
だからオレは、笑って頷いた。
ほんの少しの、バカらしい悪戯心と一緒に。
「ああ、…………オレも」
笑って、頷いて。
小さくひとり言のように付け足した呟きの真意なんて、分からなくいい。
こんなのはほんの、軽いお遊びだよ。
報われない片恋の、やや自虐的な慰めだ。
お前がそんな意味で言ったんじゃないなんてことは、百も承知で。
そんなオレの返答が、お前にとっちゃまるで見当違いで意味不明なものだということも分かった上で。
言ってみたかった、だけ。
「え?」
案の定、お前は驚いて、目を見開いてオレを振り返る。
そりゃそうだよな。
月が綺麗だなと言って、オレもと返されるとは誰も思うまい。
何が『オレも』なんだか、意味が分からなくて当然だ。
(……分かんなくて、いい)
こんなのは、ほんの軽いお遊びだよ。
報われない片恋の、やや自虐的な慰めだ。
そして。
決して届くことのない、秘密の、愛の告白。
(言ってみたかった、だけ、なんだよ……)
一生、告げるつもりのない恋だ。
この先もずっと隣に並び立ちたいと願うなら、この想いは秘めたまま、墓場までも抱えてゆかなくてはと覚悟している。
想いを伝えることは許されない。
告げればきっと、負担になるだろう。
そして、今現在のライバルとしての立ち位置、仲間としての関係は崩れてゆく。修復不可能な歪へと。
そうして失われるのは、オレのこと身勝手な恋だけでは済まされない、から。
だから。
(一生言わねえって、決めてたけど……)
『月が綺麗ですね』
それで伝わると言った夏目漱石。
幾らなんでも、そりゃ無茶だ。
こんな言葉で、アイラブユーは伝わらない。
こんな言葉が、アイラブユーとは思われない。
でも。
だからこそ。
『月が、綺麗だな』
便乗してしまおうと思った。咄嗟に、山本の何気ないその一言に。
想いをのせてしまおうと。
噛み合わない会話。意味の分からない返答。
山本は首を捻るだろう。
でも、だからこそ。
通じないのなら、許される気がした。
『月が綺麗ですね』
決して伝えられない恋を、ひっそりと伝えたい――。
「ごくでら……? 今の、」
足を止め、戸惑いがちに声を掛けてくる山本に、オレは笑って誤魔化す気だった。
何でもないと、気にするなと。
曖昧にぼやかして、笑って流して。
そしたら山本は首を捻りながらも深くは追究しようとせず、また静かな帰路をいつものように別れ道まで歩くのだ。
そう、思っていた。
顔を上げて、山本の顔を見るまでは。
「今の、オレもってホント? ってか獄寺、意味分かって……え、獄寺ってエスパー!?」
「……は?」
夜目にも山本の顔は赤く、驚いてはいたけれど、それはオレが想像していたのとは種類の違う驚愕のようだった。
キラキラした眼差し。
酷く興奮した様子で見つめられて、オレこそ意味が分からない。
(なんだ、エスパーって? オレが何の意味を分かってるって? ……ホント? って?)
呆けるオレに小さな苦笑を見せて、山本は「……まさか本当に通じるとは思わなかった」と呟いた。
通じる?
何、が?
山本が何を言っているのか意味が分からなくて、オレは黙って山本を見上げることしか出来ない。
眩暈がしそうだった。
心臓が、勝手に期待を募らせて暴走してる。
うそだ。
だって、そんな、まさか。
……うそだろ?
「明治の文豪ってすげーのな。流石、夏目漱石」
fin