・パキスタンの国内政治

連邦共和制。4つの州と連邦首都イスラーマーバード及び連邦直轄地から成る連邦国家。

インドとの対立関係もあり、伝統的に軍部の力が強い。独立以来クーデターが繰り返され、政局は常に不安定である。パルヴェーズ・ムシャラフ前大統領も、1999年の無血クーデターでナワーズ・シャリーフ首相(当時)から実権を掌握し、2001年の民政移管でそのまま大統領に横滑りした人物である。

対照的に政党の力は弱い。パキスタン人民党の初代党首だったズルフィカール・アリー・ブットーは大統領や首相を歴任した後にムハンマド・ズィヤー・ウル・ハクのクーデターにより職を追われ、後に処刑された。その娘のベーナズィール・ブットーは1988年にイスラム諸国初の女性首相となったが、やはりクーデターで解任され、復帰した後も汚職や不正蓄財を理由に職を追われている。米国の支援を受けて2007年11月に帰国するも同年12月27日、演説終了後会場にて暗殺された。

地方においては部族制社会の伝統が根強く、その慣習法が国法を上回り中央政府による統制がほとんど効かない状態になっている。特に連邦直轄部族地域にその傾向が著しく、アフガニスタンとの国境地域にオサマ・ビンラディンなどのアル・カーイダ主要メンバーが潜伏しているという米国などの指摘の根拠となっている。

また、南西部のバローチスターン州ではイギリス植民地時代からの独立運動が根強い。

このような中央政府の弱さが、2005年10月8日に発生したパキスタン地震における大きな被害の発生と、救援体制の弱さによる二次被害の拡大につながったとされる。

2006年8月現在イギリス軍は4500名の軍隊を派遣して麻薬組織やアル・カーイダと同列の組織をあぶりだす作戦を展開中。

2007年11月、軍参謀長でもあるムシャラフ大統領が、自身の地位を巡って最高裁と対立、軍を動員して全土に非常事態宣言と戒厳令を発令するという事実上のクーデターをおこなった。ムシャラフ氏は、11月28日に陸軍参謀総長を辞職して、29日に文民として大統領に就任し、11月に発令した非常事態宣言を12月16日に解除するとテレビを通じて発表した。また、2008年1月8日に、現憲法下で「自由で透明性のある方法」で総選挙を実施すると公約した。

2008年2月18日、パキスタン下院・4州議会議員選挙が行われた。登録有権者は8,091万人。下院定数342のうち、女性60、非イスラム教徒10が留保される。342から留保の70を除いた272議席が直接投票で選挙区制の一般選挙区で選出され、70の留保議席が各党に割りあたえられる。与党パキスタン・ムスリム連盟(PML)と野党パキスタン人民党(PPP)、パキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派(PML-N)の3党が中心となって議席が争われた。因みに、上院は100議席で、州議会議員等による間接選挙で選出される。総選挙の結果は、第1党はパキスタン人民党、第2党はパキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派、次は与党だったムスリム連盟である。他にムッタヒダ民族運動(MQM)、アワーミー民族党(ANP)などがある。

同年3月24日、パキスタン国民議会は、議員投票でユースフ・ラザー・ギーラーニー(就任時55歳)を首相に選出した。ギーラーニーは264票の圧倒的な支持を得た。人民党と連立するムスリム連盟シャリーフ派などの反ムシャラフ派は、下院議員のほぼ三分の二を占めた。

同年8月18日、それらの影響を受けムシャラフ大統領はついに辞意を表明した。

2008年9月6日、パキスタン国民議会上下両院と4州議会の議員投票にて大統領選挙が行われ、パキスタン人民党総裁のアースィフ・アリー・ザルダーリーが新大統領に選出された。

 

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