#41 さよなら、僕の愛しい人


  




 虚ろな瞳が満開の桜を見ている。

 深い哀しみを湛えた瞳が、呆然と桜を見上げている。









「――――行こう、園子」
 恭二くんに支えられ、瀬尾さんは立ち上がった。僕を見る目に感情はない。


 半狂乱で理性を越えてしまった瀬尾さんを僕の力だけではどうすることもできず、僕は結局恭二くんに助けを求めた。僕たちが数時間前にゆっくりと進んできた道程を、恭二くんは一時間半でやってきた。僕の携帯からは絶望に苛まれ絶叫し続ける瀬尾さんの声が聞こえていただろう。


「世話になったな、島田洵」
 通り過ぎる直前、恭二くんは静かに囁いた。穏やかな声に泣きつかれて止まったはずの涙がまた溢れだす。瀬尾さんが愛しかった。哀しかった。ほんとうは僕が瀬尾さんを守りたかった。


「……さよ、なら」
 見えなくなる直前、瀬尾さんの口から声が漏れた。その言葉が、僕に向けての最後の声だと理解するのに時間は掛からなかった。




 明治からこの家に代々受け継がれてきたという樹齢の長いオオシマザクラが、見上げた僕を覆っている。さわさわと風にしなってはなびらを散らせ、風に葉を揺らして僕の涙と泣き声を隠してくれる。
 僕はいつまでも桜の下にいた。
 深い、深い寂寥感に食いつくされて僕は抜け殻になった。




















     

 ――――夏。



 僕はひとり暮らしを始めた。
 そして教習所に通っている。
 生徒としてではなく、労働者として。






 瀬尾さんは自首した。
 すべてを思い出した瀬尾さんを誰も止めることはできなかった。当時の状況や瀬尾さんの精神的ショックによる失明と解離性健忘、恭二くんの証言もあり当時未成年だった瀬尾さんには執行猶予がついた。瀬尾さんは現在、静かに罪と向き合っているという。もう僕が知っている無邪気な瀬尾さんはいない。もしも再び瀬尾さんを笑顔にすることができるとしたら、その相手は秋夫以外にはいないんだろう。


 秋夫は、いつかきっと現れる。
 何年掛かっても、また瀬尾さんの前に現れる。
 ロマンチックだなと揶揄されたって構わない。生涯にただひとりの運命の相手とはどうやったって引きあってしまうんだから。僕はそれを一度見ているんだから。

 瀬尾さんは気がついていただろうか。一緒に生きていきたいと心の底から渇望した相手が、父親とどことなく似ていたことに。秋夫は気がついていただろうか。瀬尾さんのことだけを考えて選んだあのクリスマスプレゼントに、自分のことを思い出してほしいとたとえ一瞬でも願いを込めたことを。案外当人同士には見えないものだ。こういうことは結局、“脇役”にしか見えない。ふたりのことが大切だった、僕にしか。










             



「それにしても、なんだよこの夏らしくない気温は!」
 僕の隣を歩く屋代がまたボヤく。
「このまま秋になるとか、やめてほしいよね」
 肌を摩りながら僕も頷く。
 もうすぐ、秋夫に出会った季節がやってくる。秋だから『秋夫』。そんなベタな思いつきにまんまと付き合わされた僕のことも、嘘をついた秋夫のことも、今は笑って見逃すことができる。秋夫のことだ、瀬尾さんにふられても尚近くにいようとしている自分を、「別の人間」として扱いたかったんじゃないかと思う。直接聞けないから想像するしかできないけれど、当たらずも遠からず、というところだろう。
 瀬尾さんを一生懸命好きだったことにも悔いはない。強がりじゃなくて、あんなに人を好きになれたことが誇りだったりする。できれば成就させたかったけど、それは僕ひとりの気持ちだけじゃどうにもならない。それに、ほんとうに人を好きになるとその人の幸せを願うってことを僕は身を持って知った。だから今は瀬尾さんと秋夫が再会する日が心から待ち遠しい。


「大丈夫だよ、明後日からまた猛暑復活だってさ」
 肌寒い夏に文句を言いながら教習所へ戻ると、僕たちのぼやきを聞いていたベテランの教官が事も無げに言った。
「マジっすか? うそだろ。せっかく涼しくなったってのに!」
 屋代が叫ぶ。
「勘弁してほしいよね、もういいよ、暑いのは!」
 僕も顔を歪めて言う。

「……」
「……」
 言ってから僕たちは、バツの悪い顔を互いに向けた。