19.仲間 ―141



 駿介は、肩を叩かれて振り返った。
 裁判が終わり傍聴者たちが次々と出口を目指して歩いている時だった。後ろに立っていたのは屈強な体躯の厳つい男だった。

「何か?」
 やや怯み駿介は男を見上げた。
 どこかで見覚えがあるような、ないような――――

 考えていると男が封筒を差し出してきた。反射的に受け取る。封筒には会社名が記されていた。一瞬、頭の中で情報を処理するのが遅れた。彼が何者かに気付いたときにはその姿は出口から外へ出る直前だった。
「ちょ、っと、待ってくださ……」
 人々を掻き分け出口へ向かった。
 男は、中里亮治の世話人として必要なときに彼を護衛していたヤケミ製薬の社員、要するに中里の父親、源一に雇われている男だった。

「あのっ」
 追いついて腕に触れた。振り返った男からは張り手が飛んでくるのではないかと思うほどの威圧感があったが、構わずに言った。
「これは、なんですか」
 封筒を持つ手を上げた。
「亮治さんからの預かりものです」
「えっ?」
「今日の裁判が終わったらあなたに渡すようにと言われていました」
 軍隊のような綺麗な姿勢で男が礼をした。慇懃な口調は見掛けとはまったく違っていた。封筒に視線を落とす。次に顔を上げた時に男の姿は見えなくなっていた。

「……」
 逸る気持ちを抑えきれず、その場で糊を剥がして中を覗き見た。原稿だった。目の奥がかっと熱くなった。これは……、俺がずっと手に入れたかったものではないのか……!

 すぐに、今すぐに、読みたい。
 欲求に突き動かされ、駿介は走り出した。通りを過ぎながら喫茶店の類いを探す。どこでもいい――。目に付いた店に飛び込んだ。カラン、カランとドアベルが響く。一番奥、壁を背にする席に早足で進んだ。ウエイトレスが水を置くよりも先に「コーヒーを」と注文した。封筒に手を突っ込む。厚みのある紙の束を手繰り寄せた。
 表紙には中里亮治の名と、表題として『手記』と書いてあった。ページを捲った。







                              

 ----------何度も面会に来てもらって申し訳ないがあなたに話すほどのことは特にありません。
 私はそう言い続けましたね。

 ではなぜあなたに手記を残すに至ったのか、それはあなたが言ったひとことが私の生きる理由を砕いたからに他なりません。
 あなたには何のことか、見当もつかないでしょう。それで構いません。
 とにかく私は最後に、あなたが知りたがっていたことを教えることにしました。私と彼らがどこでどんな風に出会ったか、ということでしたね。そんなことを知って何の意味があるのかと疑問ですが、それこそ私には関係のないことですから、私は伝えすることに専念しようと思います。

 山岸章弘を除く私たちは十一才のとき、小学五年生の夏休みに出会いました。山の中の施設に約三週間収監されたときが初対面です。収監という表現は当然、私たちの間で使っていた言葉です。親たちは自分の子供に期待をかけ、真っ当な人間になるための集団生活を強いただけなのですから。
 明るく人懐こい三鷹、優しい吹田、気が弱く愚鈍な井出、粗暴な星川。彼らはそれぞれに人には言えない悩みを持っていました。
 三鷹は幼い頃から母親の虐待にあって育ち、その母親と同じに人がいるところでは朗らかに、人が見ていないところでは残酷に振る舞うという特異な人格が出来上がっていました。母親が虐待のたびに口にした『痛い目にあわせなければおまえはいい人間になれない』という口実を、成長と共にいつのまにか正義と取り違えるようになり、周りの人間の苦痛を進んで引き受けては代わりに憎しみを晴らしてやるようになりました。彼は、制裁を加える相手が"誰かを苦しめた"という大義名分があればどんな残酷な仕打ちも笑って行うことができます。彼流の正義感だったのでしょう。
 吹田はどちらかと言えば常識的な性格です。犯罪者ではあっても彼は最後まで一番人間らしい人間でした。ときどき罪悪感に苦しみ、ときどき自分の身に起きた不幸に立ち止まる、そういう人間でした。吹田は私たちが収監された施設、『わくわく子供王国』のオーナーの子供でした。子供といっても血の繋がりはなく、吹田自身の記憶もない頃に養子となったと聞いています。それ以外のことは本人も知らないはずです。彼はオーナーの"なぐさみもの"でした。物心がついた頃にはすでにそうだったようです。真性小児性愛者の養父との暮らしがどんなものか、無論私には想像でも困難ですが苦痛であることは確かでしょう。
 井出は臆病な分、世渡りがうまい人間でした。本人は自覚していないでしょうが、接する相手を安心させ自信を持たせ優位に立たせ、あまつさえより残酷にさせる力を持っていました。自分の身を安全に保ちたいがために手に入れた術、とでも言い換えられますか。とにかく彼は誰に教えられずともその方法を知っていたのだと思います。
 彼には出来のいい弟がいて、その弟に日々嫉妬心を募らせていました。両親も、子供のくせに人生をあきらめた中年のように卑屈で、不必要な機嫌取りばかりをする長男に実の子供ながら辟易していたようです。利発で天真爛漫な弟へどうしても愛が偏ってしまう。井出は、両親の愛情を燦々と受ける弟が憎くて仕方がなかったようです。あるとき弟をこらしめる方法を思いつきました。度が過ぎた危険な行為でした。結果、弟は両足に重い障害を持つことになりました。井出がそのことで弟への罪悪感や謝罪の気持ちを持ったことは記憶していません。口にしないだけかもしれませんが、たぶん、後悔はしていないでしょう。彼は誰よりも弱く周りに引きずられているように見えても、実は誰よりも自我が強い。そういう人間です。
 星川は。――そうですね、星川について語るのは、私が一番すべきではないことだと思います。ただひとつだけ言えるとすれば、私にとって彼は一番の友でした。彼がそれを信じていなくても。




 



19. 仲間―142

  

 話を戻しましょう。
 乱暴で親の手にも負えなかった星川を含め、私たち四人はその施設で同じグループになりました。約三週間、共同で作業をし一つの部屋で過ごすのです。はじめはもちろん誰もが心を開かず、互いを探りあいました。
 その施設は十二才以下の子供を矯正、育成する民間の機関で、青少年の保護という立場からか施設では互いの素性も本名も明かされません。申込書にはあらかじめ施設内で呼び合う"別名"を記載するところがあって、それが収監されている間の名前になるというわけです。
 初日から数日は私たちも大人しくしていたと思います。ただ不思議なことに妙な連帯感は初めから持っていたようです。口には出さなくとも私たちは親に"捨てられた"子供です。こんな山奥に『家族旅行だよ』と猫なで声で連れてこられ、無邪気に喜び車を降りた一瞬の隙をついて猛スピードで車を発進させた親を持つ、子供同士です。土煙の中遠ざかる車を呆然と見送りながら、そうか自分は騙されたのかと知った。その絶望を共有していると思うと心強い気持ちになったのかもしれません。
 それから数日後、星川が問題を起こしました。別のグループのひとりといざこざを起こしナイフで切りつけ瀕死の重傷を負わせたのです。原因は他愛もないことです。ですがここで三鷹が星川の援護に回りました。三鷹の正義はいつの場合も自分に助けを求めてきた側です。守るべきは自分の仲間。よって理由さえあればそれ以外の人間にはなにをやっても許される。ストレートに言えば『敵』となるわけです。
 三鷹はまだ息のあるその少年を布団で包み紐で縛って押し入れに隠しました。そしてそのことを私も井出も特別なんとも思わず眺めていました。ひとり興奮とも動揺ともつかない様子で息をあげていたのは張本人の星川です。その後、少年を捜しに職員たちがやってきました。星川といざこざを起こしたことを少年のグループの誰かが話したのだと思います。質問を受け、私が答えました。数時間前に部屋に来てスタンくんと口喧嘩をし怒って飛び出していきました、と。『スタンくん』というのが星川の別名でした。親が、星川の星とスターを関連付けてとっさに記入したのでしょう。安直だと星川も随分恨みがましく言っていたのを覚えています。
 井出も黙っていました。思えばそのときが、私たちのはじまりということになるのでしょうか。
 ある夜、私たちは脱走を試みます。オーナーの金を奪って逃走資金を作ろうと考えました。計画を立て、夜中になるのを待って忍び込む作戦です。オーナーの家は離れにあります。夜中なら事務室は無人だと思ったのです。準備は万全。私たちは一列になって真夜中の事務室へとすり足で進み、窓からそっと中を窺いました。そこで吹田がオーナーに強姦されている現場を見ました。歯を喰いしばって痛みに耐える同じ年の少年を見て、私たちは驚きとも嘆きともつかない奇妙な感覚を抱きました。それが吐き気となって表れたのが星川で、怒りとなって表れたのが三鷹で、井出はただじっと全体の様子を見ることに一生懸命で、結果私たちは吹田を助けようということになりました。逃げるのではなく、オーナーを懲らしめようと。
 その言葉に、殺してしまおう、という気持ちがなかったといったら嘘になるでしょう。最終的にはそうすればいい。その程度には覚悟していたという意味です。  
 私たちは一旦計画を白紙に戻し、吹田の様子を見ることにしました。“客”ではない吹田は私たちに関わることを許されていない様子でした。ときどき恨めしそうにこちらを見ていますがすぐにどこかへ行ってしまいます。チャンスを窺い、こっそり吹田に近づきました。
 おまえを助けてやる。
 そう囁くと彼は驚き怯え、最後には泣いて感謝を口にしました。本当はこんな地獄はいやなんだと、女のように泣きました。
 私たちは持ち物を制限されていたので、というより何ひとつ持たせてもらえずに車から降りたため、普段からナイフを隠し持っていた星川は別ですが、武器になるものはありません。すべて吹田が用意しました。オーナーの部屋からこっそりビデオとカメラを持ち出して井出に渡し、手先が器用な三鷹がオーナーの部屋の施錠を解き、吹田をいたぶっている現場に飛び込みます。脅し役は当然星川です。このことを公にされたくなかったら金を出せ、と言いました。一瞬虚を突かれ青くなったオーナーでしたがやはり大人です。ここが山の奥で私たちが子供で、助けなど誰も来ないことをすぐに思い出し狡賢い顔つきになりました。無論、こちらもそんなことは想定の範囲内です。吹田を逃がし、愚鈍なふりでオーナーに羽交い絞めにされた私にオーナーが耳打ちします。みんなの前で恥ずかしいことをされてもいいのか?
 外からビデオ撮りをしていることも知らずオーナーは私のズボンを剥ぎました。脅し役の星川はわざとドアに身を寄せます。大人には敵わない、といったポーズです。気を良くしたオーナーは、このことを誰かに言ったらおまえたちの未来を奪ってやるからな、とどこか酔ったような声で言いました。私はすっと左手を上げ、窓の外の井出に合図を送りました。瞬間、フラッシュがたかれカメラのシャッターが切られました。驚いて私から手を離したオーナーに、衣服を整えながら言いました。
「未来が奪われるのはおっさんのほうだろ」
 星川が素早い動きでオーナーの脇腹にナイフを突き立てました。ああ、この感触、と漏らした声に思わず笑ってしまい、星川が口を尖らせて怒ったような照れたような複雑な顔をしたことを覚えています。
 後始末は私が引き受けました。彼らには行動力はありましたがどこか行き当たりばったりな危うさがあり、目的を果たしたら満足してしまうため誰かが、というかこの場合私ですが、私が細部まで組み立ててやる必要がありました。

 私は父に嘘をつきました。オーナーに悪戯され彼ら――、(彼らというのは当然、星川、三鷹、井出のことです)に助けられた、と。彼らは私のために殺人を犯したと。父が事をもみ消す力を持っていることは幼い時分から知っていました。使えるものは使う、これも父から教わったことです。私は迷わず父の権力を借りました。 父は息子のために手を汚した彼らに表向き恩義を感じ、親に見捨てられる寸前の彼らと天涯孤独になった吹田に住む場所と学校を与えてやりました。けれどそれと同時に条件も付けました。息子とは同じ学校の生徒であっても表立って友人にならぬこと、と。 その代わり父が持っているマンションの一室を遊び場にと与えてくれました。私たちは学校の外でだけ会うことになりました。

 私には兄がいます。父の後継者が兄だということは生まれたときから決まっています。二男として生まれた私にも役割があります。それは仕方がありません。だからそれまでに人の動かし方を覚えておくことにしました。父の決めた時期にロシア人の娘と結婚することが決まっています。政治や市場を牛耳る一族の純正で、その一族と繋がることが出来れば父の権力は国を超えたものになるでしょう。私も裏社会で生きていくことになります。 だからでしょうか、父は私が何をしているのか正確には分からないまでも多少の悪事は見逃してくれていたようです。

 山岸を仲間に入れたのは一番最後、高校生の頃のことです。山岸を見た瞬間、彼が普通の人間ではないことはすぐにピンときました。仲間に誘わなくてもひとりでやるだろうことも、確信しました。実際山岸はそうした。だから仲間に入れたのです。

 彼らと過ごした日々に退屈は存在しませんでした。彼らがしようとすることは稚拙で穴だらけで、私が細部まで組み立ててやらなければ危なっかしくて見ていられませんでしたから。
 ただ三鷹も井出も、今みつからないとすれば生きてはいないでしょうから、私の役目も終わりということになりますね。元々犯罪そのものには興味がありませんので、仲間を失ったことは残念ですがこれも仕方のないことでしょう。


 最後にひとつだけ、お願いがあります。
 同封した物を小西遥さんにお渡しください。伝言はもう結構です。

 それでは。
 短い付き合いでしたがこれにて失礼します。
 中里亮治。
 







19. 仲間―143

   
           

 突然に遥が頭を押さえた。唇を噛み苦痛に耐えている。
「どうしましたっ? 小西さんっ」
 駒場の呼びかけにも遥は苦しそうに顔を歪めるだけだ。
「具合が?」
 哲も心配して身を向ける。タクシーの運転手も不安げにミラー越しに様子を窺っている。
「さっきの、当たり所が悪かったんじゃ……」
「病院! 運転手さん、すみません、どこでもいいので近くの病院へ」
 駒場は叫んだ。
 ほどなく総合病院へ到着した。頭を押さえ歯を喰いしばる遥を抱え、総合受付所へと進んだ。混んでいるが、事情を話して優先してもらうことになった。遥を待ちあいの椅子に座らせ、言われたとおりに書類に記入した。名前、住所、連絡先、症状――――
 分かるところだけ書き込み、遥を振り返った。
 だが遥の姿はそこにはなかった。

「哲! 小西遥はっ!」
 脳外科の混み具合を確認していた哲に走り寄って聞いた。
「えっ」
 哲も慌てて周囲を見回す。遥から目を話したのはお互いにほんのわずかだ。
「どこへ? あんなに具合が悪いのに、なんで?」
「逃げたんだ」
 おろおろする哲に低い声で告げた。
「……まさか、頭が痛いって嘘?」
 哲が放心して呟いた。いったいなんでそんなマネを……
「とにかく探そうっ」
「トイレってことは?」
「じゃあ哲はトイレを探してくれ。俺は外を見てくる」
 二手に分かれ走り出す。

 ――――嫌な予感がしていた。

 待機中のタクシーに向かった。運転席側に回り込み窓を叩く。
「すみませんっ、ここを女性が出てきませんでしたか?」
 身ぶり手ぶりで小西遥の服装や外見の特徴を話す。だが運転手は左右に首を振った。
「見てみなよ、お兄さん。今もこうやってひっきりなしに入っていく人と出ていく人がいるんだよ。タクシーに向かって歩いてくる人間じゃなきゃ俺達注意しては見てないよ」
 運転手が指差す方向は確かに、出入りの客が入り乱れている状態だった。
「っくしょうっ」
 駒場は地面を蹴った。逃げられたことより、隙を作ってしまった自分に腹が立った。……あんなにはっきりと、小西遥への疑惑を感じたのに。それなのに俺は。

 居たたまれず両手で頭を掻き毟った。携帯が鳴った。駿介からだった。
「(もしもし駿介です)」
「ごめん、駿介くん。小西遥に逃げられた」
 ともかくと、大事なことを伝えた。
「(いったいどうして……なにかあったんですか?)」
 先程の経緯を話した。マスコミにもみくちゃにされた挙句、誰かから卵を投げつけられたこと、タクシーに乗せてその場から逃がしたが途中で激しい頭痛を訴えたため病院へ行ったこと、そこで遥が消えたこと。自分が聞いた叫び声---『チェリー』---のことは、なぜか口にできなかった。

「(俺もそちらへ向かいます)」
「わかった。俺はもう少し探してみる」
 駿介に病院の場所を伝え、また走り出す。なんとしても見つけ出さねば……。
 正面玄関からでないとすれば非常口か?
 駒場は裏口へと急いだ。駿介の調子が普通ではなかったことは、この時はまだ気付けずにいた。








                        


 久宗江美香は咄嗟に叫んだ自分に驚き、そして失望した。
 ――――すべてが、無駄になるようなことを、私はしたのかもしれない。

 それが現実になったとしたら……
 考えれば考える分、不安を抑えることはできそうになかった。

 ……いいえ、大丈夫。
 私たち以外の誰も、チェリーの暗号を知らない。
 だから大丈夫。

 江美香は考え直す。だが楽観した直後すぐに黒い予感に飲み込まれそうになる。身体が震えだす。ここまで来て……、ここまで来てなんで私は……、私は、なんてことを……。



 R……
 ごめんなさい。

 彼女を乗せたタクシーが見えなくなっても、江美香は建物の裏手で身体を抱えるようにして蹲っていた。




 




 




19. 仲間―144

   

         

  “彼女”には恋人がいた。

 十五才の夏から二十才を迎える前に失った大切な恋。
 彼女は彼から愛をもらい、未来の夢をもらい、やがて少女から女にになった。

 だけど彼女の恋にはとても大きな障害があった。
 始めた恋を絶対に秘密にしなければならないほどの、障害だった。

 彼女に一方的な想いを抱く危険な少年Nの存在だ。
 Nがなぜ自分に好意を抱くようになったのかまったく分からないと彼女は言う。思い起こせば、中学生になったばかりの春、雨の日に蹲っていたNに傘を差し出して「大丈夫?」と声を掛けたことがあるというが、たったそれだけのことが、後々執着されるほどのことだとはどうしても思えない、と言うのだった。
 とにかく彼女は、Nに偏狂的に想われることになった。最初は彼女もあまり気にしていなかった。けれどNの想いに恐れることになるのはそれから間もなくのことだった。
 中学生になって初めて、男子に好きだと言われた。彼女は単純に嬉しく思った。告白してきた優しい男の子に、お友達だったら、と返事をした。次の日、男の子が学校を休んだ。心配になって家を訪ねると、男の子は腫れあがった顔を布団で隠し泣きだした。学校に相談すると言う彼女に男の子は吠えた。

 ほっといてくれ! そんなことをしたら仕返しされる。彼らにはもっともっと仲間がいるんだ。

 そうして男の子は彼女に恨みのこもった目を向けた。

 きみ、中里くんとつきあってるんだろ。なんで言ってくれなかったんだよ。そしたら僕、こんな目に遭わずにすんだのに。

 男の子は結局、そのまま学校に来なくなった。怪我の具合よりも心の傷が深く人前に出ることができなくなったのだ。

 彼女はまだ、心のどこかで「まさか」と思っていた。思い込みたかったのかもしれない。けれど次に告白してきた男の子も同じように怪我をしてしまう。偶然なのか? それとも……。
 彼女は悩んだ。悩んだ末に、N本人に直接聞いている。
「○○くんが怪我をしたのは私と中里くんがつきあっているからと言われたのだけどどういう意味なの?」と。

 Nはしおらしくこう答えたと言う。
 僕にはボディガードがついていて、片思いの相手(彼女のことだ)が他の男子生徒とつきあうようなことになったら僕が可哀想だと、勝手にやっているのだろう、と。ごめんね、とも言った。
 Nは彼女に自分の生い立ちや置かれている状況を話して聞かせた。自由には生きられないこと、友達も恋愛も制限されていること、この学校に自分にも分からない“スパイ”がいて、そのスパイがNの行動をボディガードに報告しているとのこと。
 子供だった彼女は、Nの嘘を信じた。同情すらした。

 ――――私が恋をしたら、その相手に迷惑がかかる。
 以後、彼女は大人しく、地味に、目立たないようにして学校生活を送ることとなった。
 そんな彼女にも好きな人は現れた。偶然参加したボランティア活動で、同じ学校の生徒、Sと顔を合わせたのだ。初めから不思議な感じがしたという。隣に並んでふと見上げたとき、妙に懐かしい、くすぐったい感情が芽生えた。戸惑った。自分は恋をすることが許されない……。そう思ってはいてもこの感情が「特別なものだ」ということは本能が言っている。幸せなことに、彼も同じ想いを持っていた。学校で、急に雰囲気が変わった彼女のことも気に掛けていたし、遠くからだが見守っていたと言ってくれた。
 ふたりが恋人同士となったとき彼女はすべてを打ち明けている。Nから聞かされた話しをだ。
 Sはあまり真剣には受け止めてないようだったが、彼女が必死に説得し、関係を秘密にすることになった。――大学を卒業したら、お互いの夢を持ってアメリカで一緒に暮らそう。そのときまでは勉強を頑張ろう。

 彼女はときどき、Nを誘った。同級生の範囲は超えなかったが、ふたりで映画にも行ったし、水族館にも行った。なぜそんなことをしたのか? 聞いてみたことがある。彼女は思いつめた目で言った。
 Sとの恋愛を守るためだったと。自分が誰とも恋をしていないということを定期的にアピールする必要があった。
 高校生になって徐々にいろいろなことが見えてくるようになれば彼女にもNの嘘が見えてくる。Nの背後に“スパイ”などいない。彼女の恋愛対象の相手に暴行をするSPなどいるはずがない。すべてはN本人の命令なのだと。だから彼女は、ときどきNに優しくして、Nの動向を探った。Nが父親の権力のために結婚する日が先か、自分たちがアメリカへ渡るのが先か、彼女はそれを指折り数えて待った。

 だが数年後、ふたりの関係はNに知られてしまう。慎重に隠し通してきたが、そうできない状況がやってきてしまう。彼女が妊娠したのだ。相手は誰だ? Nはそれを突き止めたのだろう。彼女は自分の妊娠によって集中力を欠いた。伝えるべきか、黙っているべきか、彼女は悩み、答えを出せない日々が続いていた。そうして伝えられないまま、恋人を失った。

 彼女は流産し、復讐を誓った。

 言葉にすればありきたりな結果だが、そこに落ちるまでの壮絶な苦しみは彼女以外の誰も知らない。深く復讐に関わった“仲間たち”のすべてがそうであるように、彼女にも彼女の地獄があった。
 自らを憎い敵と同じ“R”と名乗り復讐計画を立てた。ただひとつの目的のために。彼女の強い意思と潔い覚悟は、Nたち犯罪者をこの世から葬り去ることだけに注がれていた。

 彼女は大声で言いたかったのだ。
「私の愛する人を殺したのは、この男です」

 たくさんの人間の見ている前で宣言したかったのだ。
「絶対に許さない。死んでも、許さない」


 そのために、彼女が立てた計画はきっと誰にも真似ることなどできないだろう。恋人を手に掛けた男と恋愛関係になることなど並みの覚悟でやりきれることではない。諸悪の根源であるNに“直接手を下させる”ために彼女が仕組んだ計画は、聞いただけでも身が竦むものだった。


 そのすべてが今、終わった……。
  
         



 

19. 仲間―145

 



          

 江美香はのろりと立ち上がった。周辺に人の姿はなく、真冬の張りつめた空気が肌を刺すだけだ。俯いたまま裁判所の敷地内から出た。
 ……東京の寒さなど、たいしたことはない。
 それでも江美香の身体の震えは止まらなかった。



 小西遥が最終目的である中里亮治と対峙する。
 その日をどうしても見届けたかった。
 遥にとってはすべてはこの日のため、この時のための復讐だった。彼女とともに“戦った”江美香にも今日という日は特別な日だった。
 この日が終わったら、人生を新しくやり直す。江美香はそう決めていた。

 だから法廷から解放され外に出てきた彼女を見たとき、涙が出た。……よく頑張ったね、今までよく……
 彼女がどれほどのものを犠牲にして復讐に身を投じてきたかは江美香が誰よりも知っている。無論、自分も同じようにあらゆるものを犠牲にしてきた。その同志の人生が今日を境に変わる。

 マスコミにもみくちゃにされながらも探偵に守られてこの場から逃げていく遥に心の中で、おめでとう、と伝えた。涙を拭いながらなにげなく周辺を見回した。その中に“知っている顔”をみつけた。
 仲間の顔だった。

 どうして?!
 江美香は一瞬怯んだ。仲間は遥の方に徐々に近づいていく。手に何かを握りしめている。憎悪の顔。ひとりで復讐しようと思いつめていたときと同じような表情で遥との距離を詰めていく。松の木に身体を半分隠し腕を大きく上げる。何かを投げつけるのだ!

 待ってっ!
 江美香は心の中で叫んだ。

 待って! その人は私たちの仲間よ!
 私たちの抱えきれないほどの恐怖と憎しみと哀しみをすべて抱えて、一番非情な役割を担ってくれた、私たちの仲間、Rよ!

 やめてっ!
 心の奥の悲鳴が、声になった。気付いたら江美香は「チェリー!」と叫んでいた。彼女は仲間よ! 気付いて!
 仲間なら「チェリー」といえばすべて伝わる。

 その声が仲間に届いたかどうか分からない。声に出してしまったことに江美香自身が驚愕した。がくん、と膝が落ち、這うようにして湿った建物の裏手に逃げ込んだ。そうして震えていたのだ。

 あれからどうなったのか――――
 江美香には確かめる術はなかった。

 でも、お願い。
 どうか誰も気に留めていませんように。
 お願い。





 裁判所を振り返ることもせず江美香は俯いたまま早足で通りに出た。早くこの場を離れよう。ブナの木が待つ故郷へ帰ろう――。そのときだった、目の前に影が出来た。顔を上げると男がふたり、立っていた。思わず後退る。だが後ろにも男が立っていた。

 男の一人が胸から警察手帳を引き抜いて見せた。
「西原といいますが、ちょっとお話し聞かせてもらっていいですか」

 江美香は左右に首を振った。無意識だった。
「は。……なんですか、いきなり、なんですか」
 自分の声をどこか遠くで聞いているような不思議な状態だった。パニックの中で溺れそうなのに、どこかから静かな声が聞こえてくる。

 その理由を江美香はようやく拾い上げた。

 Rは、いろいろな結末を用意していた。その中のひとつが異様な混乱の中で江美香の意識に流れてきた。江美香はそれを掴んだ。おぼれないよう両手で抱きかかえる。

 ぐんと顔を上げた。
「はい、なんでしょうか?」
 取り囲む刑事をゆっくりと見回す。……こんなところで失敗はしない。Rのためにも。
「私に何か?」
 努めて静かに聞いた。
「お名前教えていただけませんか」
 問われるまま答えた。住所も聞かれる。答えながら徐々に気持ちを落ちつけていった。……刑事に職務質問を受けたって、事件に関係ないわ。あるはずがないんだから。
「いえね、」
 江美香をじっと眺めていた西原が切り出した。
「あなたさっき、小西遥さんに卵が投げつけられた時なんて叫びました?」
 身体全部が心臓になったようにばくん、と内から突き上げられた。耐えるのがやっとだった。「え?」と聞き返すが、笑顔が引きつる。
「“チェリー”と叫びませんでしたか。チェリーというのは“さくらんぼ”のことですよね?」
 聞かれていた…。その事実よりも、なぜ自分たち仲間の暗号を警察が知っているのか、そのことに恐怖に似た焦りが湧き上がる。いったいどういうことなの?

「チェリーというのはどういう意味で、誰に向かって叫んだのですか?」
「そんなこと、どうして答えなければいけないのですか?」
 言ってからしまった、と気付く。正しくは、「そんな言葉は発していない」と言わなければいけなかったのに。江美香は心の中で舌打ちした。ああなぜ、なんでこんなところで。ずっと今まで――、ずっと頑張って隠し通してきたっていうのに……

「実はね、久宗さん。“チェリー”というのは今回の」
 といって裁判所を顎で見遣る。江美香もつられて目を向けた。
「東京・集団殺人にとても深い関わりのあるキーワードなんですわ」
「は?」
 やはり……、やはり警察は何かを掴んでいる。どこまで掴んでいるのだろう、知りたい……。
「あの、言っている意味がよく。どう関わりがあるのか、それを教えていただけないと私だって」
 これでは交換条件ではないか。そんな取引をもちかけてどうするつもりなのだ。落ち着け……。
「分かりました。詳しくはお話しできませんがそれがどこに貼られていたかを教えましょう」
 貼られていた? なにを言っているのだろう……?
 混乱が混乱を連れてくる。江美香はマフラーの中に首を落とし震えを寒さのせいにした。
「実は、事件に関係のある現場に貼られていたものらしいですわ。さくらんぼのシール、それをある男が自分の衣服に付けて出てきまして」
 シールですって? 事件に関係のある現場……、遥のアパートのこと? それとも中里たちの仲間の部屋? ……情報が少なすぎる。
「ある男って誰ですか?」
 つい聞いた。西原は少し笑っていた。
「探偵です。もしかしたらお知り合いかな」
 探偵!
 あの、探偵!
 でもなぜ……
 考える。

 探偵が足を踏み入れることのできる現場といえば山岸の部屋だ。桂木詩織に任せた復讐――――。彼女からの事後報告では、現場に探偵の時計を置いてきた、と言っていた。警察の捜査を撹乱させることぐらいには役に立つはずだと。
 そこになぜチェリーのシール? 意味が分からない……
 まさか彼女がなにか手掛かりを現場に残した?

「久宗さん」
「!」
 呼びかけられ咄嗟に笑顔を向けた。が、強張った頬は元には戻らなかった。
「どうかされましたかね」
 西原が静かに笑っている。余裕のある、嫌な笑顔だった。
「で、久宗さん、あなたはなぜ“チェリー”と? 誰に向けて言った言葉ですか?」
「……」
 頭の中に靄がかかったように意識が遠くなった。

 詩織を思い出した。
 詩織との出会いを――――






 
【19】おわり。
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