12.潜伏―91


     

 距離を保って尾行していた相手、――堀田志保美がふいに足を止め、憎悪を持て余した表情で振り返った。

「いい加減にしてください」
 ぼんやりした優しい顔立ちのせいか、苛立った顔を作ってもどこかぼやけてしまう。だた声には敵意が気持ちのままに溢れていた。

「いったい私に何の用なんですか! 何の権利があってつけ回すんですかっ」
 ここのところ曇り空が続いている。いつ雪が降ってもおかしくないと思うほどの冷えた空気が肌を刺していた。

 哲と駿介が志保美を張るのは今日で三日目だった。初日の金曜の夜は志保美の仕事が終わるのを待って駿介が声を掛けた。途中から哲も仕事を終えて合流したが、志保美から話しを聞くことはできなかった。昨日は哲が尾行した。そして今、調べ物をしてくると言って日中別行動を取っていた駿介が戻ってきたところだった。

「ご気分を害されたなら謝ります」
 駿介が言った。
「あたりまえですっ」
 声は尖っているが目に迫力が宿らないため、申し訳ないがあまり悪いという気持ちは湧いてこない。十人十色で人間の顔の造りにもいろいろある。黙っていても威圧感を与える顔もあれば、笑っていても哀しそうな顔もあり、志保美のように、本気の怒気が相手に伝わりにくいという顔もある。だがそれが損かといえばそうとも言い切れない。数回会っただけだが、志保美を見ているとなんとなく穏やかな気持ちになる。お世辞にも美人とは言えないが、人を弛緩させる空気は誰でもが手に入れられるわけではない。
「彼女は案外男がほっとかないタイプだと思うよ」
 駿介も志保美に対して哲と同じような印象を持ったらしい。
「ああいう子が隣にいると男は安心するからね」
「ドキドキとは無縁だけど」
 哲が本音を口にすると駿介は肩をすくめてみせた。
 

「志保美さん、できればお話し」
 駿介が言い終えないうちに、志保美は左右に力強く首を振った。頑なな唇は真横に結ばれている。
「少しでいいんですが」
 志保美は首を振り続ける。
「あなたの力が必要なんです」
 哲も駿介の隣から援護した。
「知ってることをお話しいただければそれでいいんです」
「あなたにご迷惑がかかるようなことはいたしませんから」
「お願いします」
「――――もうそっとしておいてください」
 交互に口説く哲と駿介の声を振り払うようにして志保美が懇願した。
「聞かれたって、私は何も知らないんです」
「今日あなたからお話しをお伺いしたら私たちは今後、あなたの前に二度と現れません」
 言いながら哲は苦い気持ちになる。神谷にも同じことを言った。結果して会えなかったが、神谷が自殺を選ばなければ約束を破っていた。なんだかんだと理由をくっつけて、口約束など簡単に破るのが人間だ。
「本当ですか? これが本当に最後ですか?」
「ええ。最後です」
 哲は念を押した。駿介も頷く。
「私たちは知りたいだけなんです。お願いします」
 志保美は迷っているようだった。目は不安げに周囲を彷徨い、乾いた唇を人差し指でなぞっている。
「志保美さん、それではこうするのはどうでしょう」
 駿介が口を開いた。何を言い出すのか見えず哲も駿介を見た。
「志保美さんは私たちの質問に答える。だけど答えたくないことは何一つ答えなくてもいい」
「え」
 志保美と一緒に哲も声を発しそうになった。そんな馬鹿なことはない。こちらは聞きたいことがたくさんある。だがこんな約束をしたら質問のすべてが“答えなくてもいいこと”にもなりかねない。 
「どうですか」
 駿介が静かに尋ねた。
「そして今日を最後にあなたを追いかけたりはしない。約束します」
 強い風が吹き、空気の冷たさがじっと立っている哲たち三人にまとわりついた。志保美がコートの襟を合わせて身震いをした。哲と駿介は黙ったまま志保美の答えを待つ恰好だ。志保美が溜息をついた。自分が決断しなければ解放されないことにあきらめを持って気づいたのだろう。
「分かりました。そういうことなら……」
 志保美は迷いながらも頷いた。
「ではどこかへ入りましょう」
 駿介は素早かった。志保美をさっと誘導し、通ってきた道を戻って小さな看板が出ているだけのカフェへと連れていった。隣を歩いていた哲は通り過ぎる店など気にしていなかったが駿介は頭に入れていたようだ。スムーズな行動に志保美も後に続く。昼時を外れているせいか店の中に客は少なくゆったりとした空間が広がっていた。やってきたウエイトレスに飲み物を注文し、少し雑談をした。天気の話しや、会社のことだ。飲み物はすぐに運ばれてきた。三人は揃ってホットコーヒーを注文していた。ウエイトレスが離れたのを見計らい駿介が口を開いた。

「志保美さん、怪文書を送ってきたのはあなたですね」





 



12.潜伏―92

   
 あまりにストレートに聞いたため、志保美が絶句した。哲も驚いたが動揺を隠してじっとしていた。ここは駿介に任せるのが得策だと判断した。

「あなたのお気持ちは分かるつもりです。妹の玉美さんが病をおして必死に集めた貴重な情報が闇に葬られた。その悔しさは報復に値する」
 志保美は細い目を見開いて駿介を見ている。
「私があなたでも、種類は違えど何かの事は起こしたかもしれません」
「なんのことですか、知りません私」
「いいえ、あなたです。私があなたに初めて会ったのは金曜の夜です。あのとき確信しました。あなたは私を知っている、と。あなたは視線の先に私をみつけ、狼狽し後退りしました。そして逃げるように早足で歩きだした。それから私が話しかけるまで、あなたはずっと私を警戒していましたね」
 駿介はこれまで何百という取材の中でたくさんの人間を見てきた。初対面の相手が自分にどう反応するかで予測できるパターンを持っている。
「でもそのことはどうでもいいんです。私はずっとあなた方に謝りたかった。玉実さんにもです」
 駿介は続けた。
「知らなかったとはいえ、あなた方のお力になれなかったことを悔やんでいます。本当に申し訳ありませんでした。玉実さんのご家族にもいつかきちんと謝るつもりです。私を憎んでも当然だと思っています」
 “家族”という言葉に志保美はうろたえた。
「家族は関係ないです。本当です。私がひとりで――」
 言ってから志保美は唇を閉じた。しまった、言ってしまった……。目の奥に後悔が浮かんでいた。哲たちの目の前で志保美の肩がすとん、と落ちた。
「今回の事はあなたがおひとりでやったと」
 駿介の口調は穏やかだったが、相手のタイプに合わせどう気持ちを解すか、聞き出すか、データとして頭の中に入っているようだ。志保美の口説き方はもう決まっているのかもしれない。哲は志保美とともに駿介をみつめる格好になった。自分も探偵になってから少しはそういった“技”のようなものを使いこなせるようになったと思ってきたけれど、駿介に比べるとまだまだ“行き当たりばったり”という感が否めない。見習わなければ、と改めて思う。
「桂木詩織さんは今回の件には?」
 志保美は意思を持って左右に首を振った。
「彼女は関係ありません」
「では協力者は誰ですか」
「そんな人いません。本当に私がひとりでやりました。すみませんでした」
 志保美は今回の犯行の手順を詳しく説明しはじめた。脅迫文の作り方、送り方、内容、日時。それらに矛盾はなかった。

「今になってなぜですか?」
「そ、それは……、ずっと考えていた……から」
「では言い方を変えます。あなたが長く決意していたとして、突然私が許せなくなった、そのきっかけを教えてください」
「だから、突然とかじゃ」
「いいえ。あなたは長い年月私を“ほうっておいた”」
 駿介の口調が早口に変わった。
「今までなにもしなかったのなら、そのままなにもせずに今もいられたはずじゃないですか。でもあなたは行動を起こした。私に非難の手紙を送りつけた」
「だってあなたが何もしてくれないから。あなたのせいでみんながしなきゃならなくなった」
「“みんな”とは誰のことです?」
 志保美の頬がぐしゃと歪んだ。
「志保美さん、みんなとは誰ですか」
「彼が みんなって ……違います。彼じゃ、ない。……兄です。兄がみんなって」
 志保美自身、なにを口にしているのか分かっていないのかもしない。取りなすような声が続く。反面、顔面は蒼白だった。
「とにかくみんな、迷惑してます。……迷惑なんです。巻き込まないでください。普通に暮らしていたのに、平凡かもしれないけど、幸せだったのに、もう、めちゃくちゃ……。あなたが動いてくれなかったから、だから」
 駿介を責めながらも志保美の目はここではないどこかに向いているようだった。
「でももう終わったんです。そうでしょう。梨佳ちゃんたちを殺した犯人は死んで玉実の執念は実った。だからこれからは元通り。これからはずっと一緒で……」
 志保美は口を開けたまま言葉を止め、次に目の前に座る駿介を、数秒遅れて哲を見た。目を瞬かせる。まるで集中して読んでいた小説から顔を上げた直後のような、現実から離れた表情をしていた。
「あの、」
 志保美の声色は先ほどまでとは違っていた。
「私なにか言いましたか」
 ぼんやりと問いかけられた。志保美は心細い目を周囲に向けながら人差し指の爪を噛んでいる。哲の喉がごくりと鳴った。今、志保美は自分が何を言ってしまったのか分かっていないのだ。脳内での駆け引きが失敗し現実逃避を起こし、その結果不安を唇に乗せてしまった。
「志保美さん、ひとつだけお聞きしてもいいですか」
 駿介は間を開けずに質問を続けている。志保美はついていくのにやっとのようだ。
「生前の玉実さんは誰の力を借りて情報集めを?」
「誰のって」
「筋力が弱った玉実さんがひとりでやれることには限界があります。彼女の手足となった協力者は誰ですか」
「家族や、友達、です」
「友達の名前を教えていただけますか」
「それは言えま……、覚えていません」
「では女性ですか、男性ですか」
「……」
 志保美は答えなかった。以前も、駒場が同じ質問をした。玉実の協力者を「男」だと断定したときのぎょっとした顔つきを印象的だとメモに書き留めている。
「玉実さんは、親友桂木梨佳さんを殺した人間を特定する中で彼らの犯罪にも気づくことになった。その被害者に連絡を取ったのではありませんか。玉実さんの協力者は同じ立場の――、大切な誰かを失った人だったのではありませんか」
「……なにを、言ってるんですか、ぜんぜん、訳がわかりませんわたし、なんのことかぜんぜん……」
「あなたが探偵事務所の駒場さんに話したことがここにあります」
 駿介は使いこまれた革の手帳を指で叩いた。
「あなたは言いました。妹の玉実さんは梨佳さんが亡くなったときから生に執着しはじめた、と。その意味をあなたは玉実さんの一周忌まで知らなかった。そうですね。一周忌のあとで何かを発見した、もしくは誰かに何かを聞いた、という意味にも受け取れます」
 志保美は肩を縮め、やってくる恐怖に身を守るように両手で空気を押した。違う、違う、と小さく唇が動く。
「あなたは駒場さんにこう言いました。『調べてください』と。『きちんと、調べてください』そう念を押しましたね」
「でも、それは……、あのときは……、だって……」
「あなたは駒場さんに、いえ、私たちに何を調べさせたかったんですか」
「何をって、ちゃんと真実を、です。玉実が調べて辿りついた梨佳ちゃんを殺した犯人のことを……」
「本当にそのことを願っていた?」
「もちろんです! ちゃんと裁かれなきゃいけない。そうでしょう。人を殺したら罰を受けなきゃおかしい」
「ではなぜあなたは私に手紙やメールを? 駒場さんに頼んだのなら静観していてもよかった」
「あの人だけじゃ……、どうにもならないって、思って……。あなたのほうがマスコミ関係だし、それに玉実からの報告書があるし」
「その報告書には何が書いてあったんですか?」
「え、そんなことあなたが一番……」
「私宛の郵便物ですから当然私は内容を知っています。ではあなたは?」
 駿介の口調には相手を逃がすわずかな隙もなかった。
「そうです。あなたは玉実さんが私にどんな報告書を送ったのか知らなかったんです。あなたは、玉実さんが何について調べていたのかさえ知らなかった。そうですよね」






12. 潜伏―93

   

「アニキ……」
 哲はたまらずに駿介の横顔を凝視した。駿介の視線は志保美に向いたままだ。
「玉実さんが自宅へ戻られてから、お宅へ頻繁に出入りする男性がいたことを当時お隣に住んでいた奥様が覚えていました。名前までは分かりません。ですが玉実さんの車椅子を押してどこかへ出掛けていく姿を何度も見掛けていたそうです。その男性はあなたとも親しかったはずだと言っていました」
「それって」
 哲は矢も盾もたまらず駿介に質問をぶつけた。
「妹の協力者が、彼女の――」
「あなたの恋人ですね、志保美さん」
 駿介は確信を持って志保美を見ていた。
「玉実さんの協力者となった男性は、玉実さんが調べていた事件の被害者遺族。そしてあなたの恋人だ」
「ち、ちがいますっ、知りませんっ、いったい、なんのことを言ってるんですかっ、冗談はやめてくださいっ」
 志保美は今にもひきつけを起こしそうな金切り声をあげ肩を震わせた。店内の客が志保美の様子にざわつきはじめる。
「志保美さん、落ち着いて」
 哲は志保美を宥める側に回った。駿介は構わずに、どんな些細なことも逃さまいとするように志保美をじっとみつめている。
「あなたは中里たちが捕まればそれで良かった。そのために駒場さんに『事件のことを調べろ』と言い、ふと私のことも思い出した。探偵ひとりに調べさせるより、事件をより詳しく知っているだろう私が動けばもっと確実だと考えた。だが正攻法で私を尋ねても跳ね除けられると思った。なぜなら私は玉実さんからの大切な情報に見て見ぬ振りをした男だからです。それであなたは私の事を調べたのですね。再就職先を知り、ネットに載せている私のメールアドレス宛てに脅迫文を送信し、実家を突きとめて手紙も送った。そうせざるを得なかった」
 志保美はもう首を左右には振らなかった。その代わり、呆けたように目を潤ませて駿介を見ていた。半開きの唇が小刻みに震えている。
「あなたはとても寂しそうだ。恋人とも随分会っていない。そうですね」
 哲は思い出していた。駒場に揺さぶられたあとで志保美が誰かを探しに行ったこと。結局誰にも会えず、肩を落として帰っていったこと。――――そうか! 志保美の恋人は今回の復讐劇に加わっているのだ。だから志保美と離れていた。志保美が先ほど口にしたではないか。
 ……でももう終わったんです。
 ……これからはずっと一緒で

 知らずに腰が浮いていた。テーブルの下から駿介に膝を押さえられ我に返った。息を吐き、座り直した。
「あなたは恋人が手を汚さないようにと、私たちを使った」
 駿介は保奈美から目を逸らさなかった。
「私たちに事件の真相を調べさせ警察を動かす。それがあなたの狙いだった。違いますか」
「お願いです。もう止めてください」
 志保美はテーブルに両手をついた。
「それ以上、なにも言わないでください。私はなにも答えません。それでいいんですよね? あなたが言ったんです。答えたくないことにはなにも答えなくていいと」
 志保美は必死に訴えてきた。
「それに本当に私はなにも知らないんです。あなたにおかしな手紙を送りつけたことは謝ります。でもあなたにも責任を感じてほしかったんです。それだけなんです。それだけなのに、なんだか訳の分からないことを言われて、疑われて、とても迷惑です。私には確かに恋人がいます。でもこんな風につきまとわれたら恋人は私の元に戻ってこれない。それだけは間違いありません」
 志保美は天井を見上げ零れそうな涙を啜りあげた。それから歯を食いしばり続けた。
「困るんです。私の幸せ、壊さないでほしいんです。もうこれが最後ですよね? 絶対ですよね? 私の前に二度と現れないでくれますよね?」
「はい、その通りにします」
 駿介は口を閉じた。
「約束してください」
「もちろんです」
 志保美の手がバッグを掴む。中を開き財布を取り出す。
「ここは結構です。支払いはこちらで」
「いえ、」
「本当にお気になさらず」
「分かりました」
 志保美の手が財布をしまった。椅子から立ち上がり会釈する。立ち去ろうとして、また振り返った。哲と駿介は志保美を見上げる恰好になった。
「それから……信じてくれなくてもいいですけど、私の恋人は手を汚していません。兄が教えてくれました。兄は私に嘘は言いません。秘密は多いけど嘘はつかない」
「おに――」
「分かりました。ありがとうございました」
 哲の言葉を遮り駿介が志保美に頭を下げた。渋々、哲も頭を下げる。顔を上げたときには志保美は柱の先へ消えていた。

 



 




12.潜伏―94

   

「アニキ、なんで彼女を解放したんだよ。俺まだ聞きたいことがあったのに。それにあと一歩踏み込めた」
「いや、無理だよ」
 駿介は冷めたコーヒーをすすりながら言った。
「彼女はたぶん、たいしたことを知らない」
「そうかな」
 駿介の答えに哲は憮然とした。
「金曜の夜、彼女に初めて自己紹介したときのこと覚えてるか」
 覚えているも何もつい一昨日のことだ。
「彼女は俺のことは当然知っていた。怪文書を送りつけた相手だ。だがおまえのことは知らなかった」
 確かにそうだ。志保美は差し出した名刺と哲の顔を見て、え、と声に出し、次いで駿介と自分を見比べた。
「俺が、『実は自分たちは従兄弟だ』と言ったあと彼女はとてもばつの悪そうな、なんとも言えない複雑な表情をしただろ。あれを見て確信した。彼女はすべてが無計画だ。思いついたことをしている。俺たちの関係も知らず利用しようとしたなんて、もしも今回の事件に加わっているのなら笑い話にもならない」
「それって……」
「復讐を果たそうとしたとして、俺だったら彼女を仲間にはしない。危うすぎる」
 たった今見送ったばかりの志保美を脳裏に呼び戻す。
「おまえが聞こうとしたことの答えも出てる」
「出てる、って?」
「志保美さんの兄もこの件に関わっているのか、それを聞こうと思ったんだろ。彼女が口を滑らせたじゃないか、“兄が教えてくれました”と。確かめるまでもない。兄と恋人は行動を共にしている。復讐の機会を窺っていたのかもしれない。たが結果して直接手を下してはいない。しようとして出来なかったのか、または別の理由でしなかったのか、そのあたりのことが俺にはまだ釈然としないことが多いが、とにかく彼らの復讐は終わったわけだ」
 言ってから駿介は眉間を押さえた。考えているのか疲弊しているのか、目を閉じていて分からない。哲は鼻から息を吐いた。
「アニキ、彼女がなぜ妹の報告書の中身を知らないと思ったんだ?」
 駿介が目を開けるのを待って聞いた。
「志保美さんと会話をしていて、もしかして、と思いはじめた。おまえが持ってきてくれた資料にもあったよな、ナギさんが彼女に、『詩織さんが玉実さんを見舞いに来て励まして帰った』とエピソードを語ったとき、『なんでそんなことまで知っているんだ』と驚いていた、と。決定的だったのは、俺たちに何を調べさせたかったのかと聞いたとき、彼女はこう言った。『玉実が調べて辿りついた梨佳ちゃんを殺した犯人のことを』と。妹が俺に送った資料にそれ以外のことが含まれていると知らなかったんじゃないかと思ったんだ」
「なるほど」
「昨日と今日、玉実さんが生前暮らしていた町へ行ってきた。そこで家族の人となりを集めた。そこで思い当たった。今回の件、堀田志保美は“蚊帳の外”だ。なにかの計画が立てられていたとして、彼女が加わっていたとはどうしても思えない」
 哲も頷いた。言われてから思い起こせば確かに志保美は秘密を持てるタイプではないようだ。追いつめられれば無意識のうちに不安を口にしてしまう。精神的に完全犯罪を成し遂げるには不向きと言える。
「よって詩織さんとも仲間ではないな」
「……」
 詩織とのやりとりを脳裏に呼び起こす。詩織は、駿介に送られてきた怪文書に興味を持っていた。内容を知りたがった。志保美が協力者であったならすべてを知っていたはずだ。

「近所の人たちはいろいろなことを教えてくれるもんだよ。たとえば、車椅子の玉実さんを週に数回外へ連れ出す男性について、家族は周囲に『ヘルパーの人だ』と説明していたらしい。玉実さんがインターネットを通してボランティアのヘルパーをみつけてきた、とも言っている。玉実さんたちはふたりだけで情報集めをしていたんじゃないかな。家族は誰も知らなかった」
「そうか。兄妹がそれを知ったのは妹の一周忌」
 駿介が頷いた。
「復讐心を抱えながらも男は玉実さんを通じて姉の志保美さんと交流を持ち彼女と付き合うことになった。志保美さんは友人に、妹の面倒を親身に見てくれるヘルパーと付き合っている、と打ち明けている。玉実さんの一周忌まで、志保美さんはその感覚でいたんだと思う」
 哲は生唾を飲み込んだ。駿介は続ける。
「男は新聞記者に“期待”していた。堀田玉実の報告書から犯罪が暴かれることを待っていた。一周忌まで、待った。そしてあきらめた」
「男は自分で復讐しようと決めた。だが恋人である志保美は巻き込まなかった。代わりに兄を巻き込んだ?」
「その辺はなんとも言えないな。志保美さんの兄が自ら復讐に加わることを望んだのかもしれないし。とにかく志保美さん抜きで復讐の計画は練られていったんじゃないかな」
 憶測の域を出ない。真相が知りたいと思った。駿介も当然そうだろう。
「ただところどころは志保美さんも知っているんだ。たぶん、兄と恋人が復讐の道を選んだとき、説得上必要なことだったんじゃないか。でなければ山岸たちの死と警察発表もされていない梨佳さんを結びつけるわけがない」
 確かに志保美は言った。
 “梨佳ちゃんたちを殺した犯人は死んで”と。
「今回の件は整理し突き詰めていくといろいろと矛盾が生じるんだ。星川を殺したのは中里だろ。中里は生きている。井出と三鷹は行方不明だ」
「志保美もさっき口を滑らせたよな。“でももう終わったんです”ってさ。復讐が済んで志保美の恋人も戻ってくるって意味だよな。彼らが復讐したかったのは誰だったんだろうな。もしかして井出も三鷹も生きてないんじゃ……」
 駿介が、察しがいいじゃないか、と驚いた顔を向けてきた。哲は鼻の下を人差し指で擦った。
「それくらいは俺だって」
「はは。そうだな悪かった」
「ちぇ」
「復讐は誰かがした。それは間違いないと思う。だけど姿は現さない。そもそも動機がない。被害者が特定されていないんだからな」
「うん。警察がどんなに調べても分からない」
「だが俺たちは警察が知らない被害者を知っている」
「たとえば詩織の妹の梨佳や、神谷の父親の不倫相手」
「玉実が連絡を取り合った被害者遺族たち」
「なあアニキ、その久宗江美香って人はどうなんだ?」
「彼女はクロだ。だが、志保美さんの言葉を借りれば彼女も手を汚していない」
「アリバイがあったわけだ」
「ああ。完璧にあった」
「ってことはどういうことだ? 実行犯を雇ったとか?」
「そういうことかもしれない。だが、まだ分からない……」
「うーん」
 哲は伸びをした。そのまま頭の上で手を組む。漫画や映画などの作りものの中にしか存在しないと思い込んでいる裏の社会が実は存在し、殺しを専門に請け負っているプロの仕事人がこの世にいるとしたらどうだろう。奴らは誰にも素顔をさらさずに仕事をこなす。依頼者にすら、たとえ隣の家に住んでいて気づかれないような完璧な身元の隠し方が出来、莫大な報酬とともに仕事を終えたあとはさりげなく、いつ消えたかも分からないように自然に去っていく。当然ターゲットとも過去に関わりがなく、証拠も残さないから永遠に足がつかない。

「はは、馬鹿な……」
 自分で自分に突っ込んだ。哲の独りごとに駿介が顔をあげた。大丈夫か、という目をされる。哲は取り繕い、苦い顔で冷めたコーヒーを飲み干した。








 

12.潜伏―95



         

「プロの殺し屋がこの世にいるかどうかは別にして……」

 哲の思いつきを最後まで聞いてから、駿介は逸れた話しをやんわりと修正した。
「殺したいと思う誰かがいて、誰かが殺した、それが事実だと俺は思う」
 表向き、この事件には『犯人』がいない。事故死、自殺、仲間同士の刺殺、そして行方不明……。どの件も警察は他殺としての証拠集めをしていない。仮に他殺だったとして、この残虐極まりない仲間たちが内輪のトラブルで殺した――、そう捉えている節がある。懇意にしている昔の記者仲間からの情報だから間違いはないだろう。それもそうだ。彼らを恨み続けている人間は存在せず(特定せず)、殺しの証拠はどこにもない。これが“何者かによる犯行”であれば、なにもかもが用意周到に練られた完璧な作戦の上に実行された復讐劇に他ならない。

 駿介は脳裏に数人の顔を浮かべる。そこには久宗江美香も当然いる。玉実が必死で探し集めた犯罪の証拠、そこに記されていた被害者たち。被害に遭いながらそんなことはなかったと涼しい顔で否定した人間――、特に、莫大な借金を背負わされ自殺してしまった男の妻のことが引っかかった。
 ダメ元でも明日彼女のアリバイを調べてみよう。
 駿介は決めていた。

「ったく、なんだよこの厄介な事件は」
 隣で哲がお手上げのポーズを作る。その肩に手を置いた。
「犯人は存在するんだ。それだけは真実だよ、哲」
「そうだよな。神様が天罰を下した……なーんてことはあり得ないからな」
「その通りだ。彼らに直接手を下した人間は必ずいる」

「それでさ、アニキ……」
「ん、なんだ?」
 口の中でもごもご、という感じに言いにくそうに言葉を噛んでいる哲を改めて見た。
「あいつのことだけど」
「あいつ」
 考えるふりで少し上方を見上げた。哲が言っているのは桂木詩織のことだろう。
「手掛かりはまったくないよ」
「そっか」
「まあ、頑張るけど」
「大変だろうけど頼むよ」
「わかった」
 お互い名前を出さずに詩織の話題を終えた。

 駿介は決めていた。
 哲に協力を頼んだときから、桂木詩織のことは全面的に任せようと。彼女に辿りつき、結果逃がしてしまうことになったとしてもだ。ただ哲を信じてもいた。真実について貪欲なのが駿介同様、佐々木家の血だ。逃がす前に真相は掴み取るだろう。だから心配はしていなかった。それに自分たちは刑事や警察官ではない。犯人を捕まえるのは自分たちの仕事ではない。

「ここからは少し単独だな。俺はもう少し深くこの事件の奥に潜り込もうと思う。おまえは詩織さんを探すことに集中してくれ」
「わかった」
 志保美が席を立ってから水を注ぎに来たウエイトレスに追加のコーヒーを注文した。熱いとやはり美味しかった。カップの中身が空になったのを互いで確認し、どちらともなく席を立った。


「それからさ、アニキ。詩織のことももちろん探すけどさ、神谷の方も気になるんだ」
 外はさすがに寒かった。襟を立て足踏みをしながら遅れて後ろから来る哲を待つ。
「ああ、彼が亡くなり香典を置きにいたという同級生か」
「まだ連絡は来ないけど明日あたりもう一回急かしてみようと思ってる。この件には無関係かもしれないけどなんか引っかかって」
「いいんじゃないか。そういうのはジャーナリストにはとても必要だ」
「うん」
 勢いよく頷いてから、哲は真顔を向けてきた。
「って俺、探偵だけど」
「……そうだったな」
 並んで歩き出してから、駿介は肩から力を抜いて少し笑った。 







「12」おわり。
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