アンチモニーの憂鬱






国産初期モデルに関するいくつかの仮説


国産ヴィンテージ・ミニカーの人気が高いようです。
それも「材質が柔らかくてもろい」「残っているモデルが少ない」「したがって価格が高い」と三拍子そろったアンチモニー製モデルへの評価が高く、アンチモニーの魅力にハマってしまったコレクターの憂鬱な日々は続きます。

確かに、1960年代半ばの初期ダイヤペットと、現在のアガツマ製ダイヤペットを比べて見た時に、「なるほど、さすがに40年の間に技術はこれだけ進歩したのか」とは必ずしも言えない面を持っています。

ミニカーに限らず、日本の製造業はこの40年、というよりもこの100年、「新しく作られるものは、より進んだ良いものである」という価値観のもとにモノを作り続けて来ました。少なくとも本物のクルマに関しては、(スタイリングの好みは別として)性能面で「40年前のクルマは良かった」と言う人はいないでしょう。

オーディオで、真空管を探して来てアンプをレストアされる方もいらっしゃるようですが、音質でのデジタル←→アナログの議論はあるにしても、記録やマルチメディア化の中でのデジタルの優位性もとりあえずは否定されないはずです。

ではミニカーに関してだけ、「昔のミニカーは重量感があって良かった」といった議論が真面目に成立してしまうのは何故なのでしょう。

今回は、特にヴィンテージの中でも稀少になってしまった「アンチモニー」製のモデルに焦点を当てて、少しこの点を考えてみたいと思います。登場させるミニカーについては、これまで「クラウン」を扱う機会が多かったので、セドリック/グロリアを素材にしてみたいと思います。(グロリアは、セドリックと共通化する以前のプリンスの設計になるS40〜HA30系までにさせていただきます。)
  


画像は、モデルペットのセドリック4ドアセダン(H30型)、大盛屋チェリカフェニックスのセドリックバン(VP30型)、最近のブリリアントモデルのアンチモニー製の同じくVP30型。
ブリリアント製は60年代の大盛屋のパッケージを強く意識した懐古調のもの(おそらく使用している写真は当時の日産のカタログのもの)になっていて、国産初期ミニカーへの強い憧憬を感じさせます。単に古いモデルが手に入りにくいから、というだけとは思えない、過ぎ去った時代のクルマ/くらし/ミニカー/モノづくりなどに対する見直しの風潮が関係しているのかもしれません。

今回は当時の広告などもいくつかアップしてみますので、1960年代の空気を少しでも感じていただければ幸いです。ミニカー関係の広告は、ジャパン・ミニチュア・コレクター・クラブ会報『コレクター』誌・第37号(昭和38年(1963年)3月1日発行)のものです。またプリンス・グロリアの実車広告は、CARグラフイック誌・昭和39年3月号のものです。いずれも東京オリンピック直前の時期です。広告等の画像アップについては版権等の問題もあるかと思いますが、私の個人的所有物を撮影(スキャン)した画像であることと、何分にも古いものばかりで、アサヒ玩具・大盛屋・プリンス自動車ともに現在存続していない法人であることなどから、掲載させていただくこととしました。

なぜ大盛屋はアンチモニーを素材に選んだのか?


国産ミニカーの草創期に、モデルペットのアサヒ玩具はダイキャスト素材を、ミクロペット/チェリカフェニックスの大盛屋は、アンチモニー素材を採用したことは広く知られています。そして、モデルペットは中期に一部のモデルにアンチモニーを使いましたが、大盛屋は結局最後までアンチモニーで通し、ダイキャストを使いませんでした。

そもそもどうしてアサヒ玩具はダイキャストを、大盛屋はアンチモニーを自社製品の素材として選択したのでしょう。
両社ともに、ミニカーを国産化する企画のスタートにあたっては、当然ディンキー/コーギーなどの海外モデルを見たはずです。ディンキーもコーギーも、素材はダイキャストです。何故海外ブランドに見られない「アンチモニー」という選択肢が生まれたのでしょうか。

月刊『モデルカーズ』2001年3月号で、『国産高級車が高級だった頃』という特集がありました。この中には、「ATC・アサヒ玩具」製のティントーイモデルが複数掲載されています。そして、モデルペットに使われているのと同じ「サンタクロースにATC」のブランドシンボルが使われています。アサヒ玩具は、モデルペットの発売以前から、ブリキの自動車モデルを生産していたのです。

ブリキの自動車(ティントーイ)はブリキ板をプレスして作ります。プレスには、プレス金型が必要です。ブリキと言えども鉄板をプレスするわけですから(ブリキは、鉄板が錆びるのを防ぐために錫をメッキしたものです)、金型にも当然金属的な硬度・強度が必要になります。したがって、アサヒ玩具はモデルペット製造以前から、鋳物素材のプレス金型を製作する協力工場との関係を持っていたことになります。そして、プレス金型を製造する技術は、ダイキャスト金型製造にそのまま活かすことができます。

一方で、大盛屋がミニカー製造以前にどんな製品を扱っていたか、という点については私は資料を持っていません。ただ少なくとも、ブリキの自動車のメーカーとしては、「大盛屋酒井通玩具」という名は上がって来ないようです。ティントーイ乗用車のエンサイクロペディア的な資料にも、「TAISEIYA」の製品およびブランドマークは掲載されていませんでした。(The Big Book of Tin Toy Cars, by Ron Smith & William Gallagher,Shiffer Publishing, 2004)「ヨネザワ」や後に日本最初のプラモデルを作ることになる「マルサン」が、ブリキ自動車を製作しているにもかかわらず、です。

大盛屋はミニカー以前からアンチモニー工場との関係があった??


 『アンチモニー製品の生産地は、日本でただ1箇所「東京」のみであり、葛飾区においても地場産業として多くの企業が集積しています。
 アンチモニー産業の始まりは、江戸時代から明治時代への歴史の転換期、日本近代化の黎明期にまでさかのぼります。それまで幕府の彫刻師であった「ご殿彫り」の名匠が、幕府の消滅により失業し、様々な汗と創意工夫の結果、伝統工芸品の大衆化や複製化の技術を開発しました。これに江戸職人のメッキ技術や打ち物技術、それに印刷活字からヒントを得たアンチモニーと鉛の合金が合流して現在に見られるアンチモニー製品が創造され、今に至っています。』

『アンチモニー製品の産地は東京だけであり、輸出雑貨品としても成長してきました。製品としては、優勝カップ、トロフィー、オルゴール、宝石箱、ライターなど、数多くのインテリア小物や装飾工芸品が造られています。』

これは、「葛飾アンチモニー会」という団体の解説中にある記述です。
(http://www.katsushika-sangyo.or.jp/seizogyo/dantai/jiba/anti.html)
これには、正直言って私も驚きました。確かに大盛屋もアサヒ玩具も本店所在地は台東区でしたし、現在アンチモニー製モデルを発売している各ブランドも、ファインモデル(イケダ)が荒川区、アイアイアドは板橋区、川端企画は世田谷区です。唯一ブリリアントモデルが大阪市住吉区ですが、おそらくここも東京都内の協力工場に外注している、と考えるのが順当でしょう。

想像するに、大盛屋はミニカー発売以前から、アンチモニー素材の玩具類などを扱い、都内のアンチモニー鋳造の協力工場との関係があったのではないでしょうか。
『輸出雑貨品としても成長してきました』という表現が、大盛屋の事業拡大のプロセスと重なっているように見えます。

昭和30年代、駄菓子屋で子供たちの買う「くじ」があり、「アタリ」にはクルマをはじめとするアンチモニー製の玩具、「ハズレ」にはプラスチック製の玩具が供された、ということです。(『少年少女レトロ玩具箱』落合紀文著・河出書房新社・2003年・44P。年代がズレているのか、地域の違いなのか、私自身にはこのクジを引いた体験はありません。)これらがまさに、東京のアンチモニー工場で生産されたもののはずです。私はこの「アタリ」のアンチモニー製モデルを持っていませんし、仮に入手したとしても、「TAISEIYA」の刻印のあるものに巡り合えるとは限りませんが、大盛屋がこうした玩具を生産していたとしても不思議ではないのです。

つまりアサヒ玩具も大盛屋も、全く白紙の状態から「ダイキャストか」「アンチモニーか」というミニカーの素材選択をしたわけではなくて、自社と協力工場との関係からそれらを選択せざるを得なかったのではないか、と考えるのです。

大盛屋にとってアンチモニーの選択は得策だったのか?


しかし、アサヒ玩具と大盛屋の素材選択の結果には実は矛盾があります。

大盛屋の初期シリーズは、「フリクションモーター」を入れた、コレクション・アイテムというよりは「玩具」性を残したものだったのにもかかわらず、生産量の少ないアンチモニー製だったことになるからです。一方でモデルペットは、最初から量産の可能なダイキャスト素材だったのです。初期モデルペットは車輪が回転する以外のアクションは全く持っていませんから、モデルペットこそ、完全なディスプレイ用モデルで、柔らかいアンチモニーでも良かったのです。

「MICROPET」というブランドについて、「インパラへの郷愁」の時に書き忘れたことがあります。私たちは先入観があるので「MICROPET」を「ミクロペット」と読みますが、アメリカ人に見せたら、「マイクロペット」と読むんじゃないか、という気がするのです。「マイクロファイバー」「マイクロウェーブ」「マイクロチップ」の「マイクロ」です。1mmの1/1000の単位は日本では「ミクロン」ですが、英米では「マイクロン」です。「マイクロ」というのは、1/40とか1/50とかではなくて、もっと微細な世界のことで、「マイクロペット」は、何か微生物を飼育するオモチャ、といった感じに受け取られるのではないかと危惧します。

同様に「CHERRYCA」は「Cherry Car」から来ているのだと思いますが、「Cherry」はフツーには「桜」の木/実ですが、アメリカ俗語だと若干ヤバイ意味もあるようです。
唯一「PHENIX」「PHOENIX」は、「不死鳥」であると同時に「卓越したもの」「逸品」といった意味があり、「MINICA PHENIX」は「ミニカーの逸品」といった感じになって、輸出ブランドとしてはこれが一番いい、というのはうなずける気がします。

アンチモニーの製造工程を解説しているサイト
(http://www.j-times.co.jp/anti/sub20.htm)には次の記述があります。

『アンチモニー合金は軟金属であり、肌ざわりも大変柔らかく、どっしりとした重量感があります。また、製造において、この特性からどんな微細な模様も鮮明に表現できます。さらに、他の鋳物製品よりもピンホールの欠点が少なく、メッキの乗りが良いため、金、銀、ブロンズ等のメッキが綺麗に施されます。』

「メッキ」という記述は、フェニックスシリーズの「メッキ・マスク」製法を思い出させるに十分ですが、これらはいずれも「工芸品」「装飾品」的なコレクション・アイテムにふさわしい属性であって、フリクション入りの玩具に求められる属性ではありません。協力工場との関係からなされたと思われる素材・製法選択が、最初から大盛屋の弱点になってしまったのではないでしょうか。

金型製作は容易、生産に手間のかかるアンチモニー製モデル


アンチモニー製法では、
@石膏型、木型の原形を作る
Aその原形を元にして砂型を取り、そこに黄銅真鍮地金合金を流し込んで金型を作る
B金型は上、下、左右、中合、入り子とバラバラであるのを鋳型にする
C「マトメ加工」で、型の合わせ目(パーティングライン)のバリ(余分な部分)を
 取った後、滑らかな仕上げ加工をする
Dメッキの状態を良くするために表面の研磨をする

という工程が必要だということです。
(http://www.j-times.co.jp/anti/sub20.htm)

@・Aは、アンチモニー鋳造での金型製作の簡便さを表しています。ダイキャストの精密金型(反転型)は、鋳物素材・特殊鋼を切削して加工しなければ作れません。現在の技術なら、CADで設計・数値化された3次元原型の情報を数値制御で切削できますが、1960年代ではそういうわけにはいかなかったはずです。

昭和33年(1958年)の12月に、日本最初の「プラモデル」を発売することになった「マルサン商店」には、西ドイツ・デッケル社製の「コピーマシン」があり、これは当時国内ではマルサンとY.K.K.吉田工業の2社にしかなかった、ということです(モデルカーズ・CAR MAGAZINE 1987年8月増刊号95〜96P)。これは立体彫刻機で、原型をトレースしていくことで、金型を切削加工できた機械のようです。マルサン最初のプラモデルはアメリカ・レベルの製品のコピーであり、またマルサンはミニカーでもイギリス・ディンキーのコピーモデルを複数生産しました。

これに対して、アンチモニーなら、木型・石膏型からほぼダイレクトに真鍮製金型が得られるわけですから、このように高価な立体彫刻機や精密金型加工技術は必要なく、「低コスト」「より簡便にできる金属注型」であることには間違いがないわけです。生産量が多くできないのを承知でアンチモニーを選択する理由がここにあると考えられます。

アンチモニーではドア開閉アクションは実現せず


コーギーのボンネット/トランク開閉、サスペンションといったアクションに強い刺激を受けたアサヒ玩具/大盛屋も、こうしたアクションの実現に取り組みました。ダイキャスト素材だったアサヒ玩具は、やがてNo.32のシルビアでドア開閉をも実現するに至りましたが、アンチモニーの大盛屋では結局ドア開閉は実現しませんでした。ボディ強度の面から側面に穴を開けることが不可能だったのでしょう。

大盛屋でボンネット開閉・エンジン付きを実現したのはS40系グロリア(PHE-24)/H31系セドリック(PHE-25)/RS41系クラウン(PHE-26)ですが、初期のエンジンが別パーツだった処理(いわゆる初期「赤エンジン」モデル)から、やがて生産工程短縮型のボディ〜エンジン一体モールドになりました。
一番右はダイヤペット製の130セドリック(161番)ですが、協力工場を継承した関係で、ほぼ大盛屋と同じ製法です。米澤が大盛屋から31系セドリックの金型を継承した直後に実車は130系にフルチェンジしたため、ダイヤペット製の31系セダン(120番)/パトカー(134番・画像中央のモデル)は大変に生産数の少ないモデルになってしまいました。

アンチモニー合金の柔らかさは低融点に起因
アンチモニー製造には「金型は不要」としている資料もあります。確かにアンチモニー合金の融点は220℃程度で、シリコンゴム型でも注型できるようですが、少なくともミニカー生産のためには真鍮金型が製作されていると考えられます。
これに対して、亜鉛合金の融点は387℃程度です。「亜鉛ダイキャスト」という金属があるわけではなくて、亜鉛合金をダイ(鋳型)に入れてキャストしたものが「亜鉛ダイキャスト」で、アルミニウム合金(融点580℃)を使ったものが「アルミダイキャスト」です。ミニカーにいつまで亜鉛ダイキャストが使用されたか、という点はよくわからないですが、少なくとも初期モデルペットやマルサンは亜鉛ダイキャスト、現在のトミカやアガツマ・ダイヤペットはアルミダイキャストのようです。

アンチモニーが柔らかいのは、この融点が低い、ということと関係するのだと思います。つまりハンダと同じです。アンチモニー製モデルはルーフが変形しているものが多いですが、それは子供の遊び方が激しかったわけではなくて、指で押すだけでも繊細なピラーだけで支えられているルーフは簡単に変形してしまうのです。バリ取りなどのマトメ加工は手作業で行ったはずなので、(柔らか過ぎて機械でバリ取りができない)、生産段階から変形する可能性すら否定できないわけです。

前述の『コレクター』誌・第37号には、巻頭にアサヒ玩具/大盛屋/国際貿易(当時ディンキーなどの輸入代理店で、現在でもソリド/イクソなどを精力的に輸入し続けています)の3社の出席による座談会の記事が掲載されており、その中に以下の記述があります。

国際:旭さんにお伺いしたいのですが、いまお宅はダイカストの材料というのですか、
   原料というのですか、あれはディンキーやコーギーなんかと同じものをお使いに  
   なっておられるんですか。
旭: そうです。亜鉛合金材です。
大盛:私のところはアンチに少し補強材を入れてます。こまかい部分はあれは粒子が
   こまかいから使っていますが、そうですね、アンチ60%に補強材40%ぐらい入れて
   いるのです。

アンチモニーの金型がバラバラに分かれている理由ですが、型には「抜け勾配」というものがありまして、型は勾配の下がっている方向にしか抜けないからなのです。勾配の上がっている方向に抜こうとしてどんなに引っ張っても、ひっかかって抜けません。
シリコンゴム型のような柔軟性があれば、抜け勾配に逆らっている部分があっても取り出せますが、金型には柔軟性が全くないので、型を分割してしか取り出せないのです。マルサン初期の1/40トヨペットクラウンのキットは、ボディの裾がスカートのように広がっていますが、これは抜け勾配の関係であって、逆に1/25ダットサンは正確なボディ形状を出すために、ボディパーツを前・後・天・側面に分割していました。

またアンチモニーは実車のマイナーチェンジへの対応が容易だった、という記述を良く見かけますが、これはつまり金型が分割されているからで、ボディ側面・天面をそのままにして、フロントグリルやリアエンド回りの金型だけを改修できるから、というわけなのです。

分割された型を一体にしてからアンチモニー(湯)を注ぎ、冷却したらまた型を分割して取り出し、バリ取りを手で行うことになります。ましてメッキをするということになると、表面をピカピカに研磨しなければなりません。
アンチモニーの生産量が少ない、という理由はここにあります。

生産量を推測してみると…


画像のダイヤペット164番(画像左)のHA30系グロリアは、アンチモニー製だったために生産が間に合わず、213番(画像中央)でダイキャスト製の別金型として再生産されました。
パトカーはこのダイキャスト製ボディのもの(232番・画像右)しか作られていないのは、これも後のコレクターには幸いでした。アンチモニー製パトカーが作られていたら、これも生産量の少ない難物になっていたことでしょう。

アンチモニーでは「生産量が少なかった」ということは良く言われますが、実際にはどのぐらいの数量だったのでしょうか。この点については、生産記録でも発見されない限り把握はむずかしいですが、少し無謀な推論を試みてみましょう。

まず、いくつか参考データを見ましょう。
トミカ5-1の「トヨタ2000GT」は、大変な人気モデルで、生産期間は1970年9月のトミカ・デビュー時から1981年9月までのなんと11年間。そして最終生産分として「TOMICA No.5 TOYOTA 2000GT “70〜80” 3,000,000 LAST 2000GT」の文字をタンポ印刷した、「最終生産モデル」(ファイナル・ラン)が作られました。累計なんと300万台、11年で割ると年間27万台、という数字になります。トミカの売れ筋モデルはこういう数字になるわけです。そのかわり2000GTの金型は、もうキャスティングすることができない状態で、リミテッド用の金型は新たに起された、と言われています。

もうひとつ、講談社刊『ミニカー大百科・トミカコレクションのすべて』(1998年)174ページに、稀少といわれるホンコン・キャスティングのギャランGTO(#30-1)について、『30万台しか生産されなかった』という記述があります。
30万台で「しか」という表現は意外ですが、上記の年間27万台という数字と比べると、約1年間程度の生産量ということになります。(実際には30-1の生産期間は1972年2月から1975年12月にわたっているので、年間の生産ペースはこれより低いことになります。これはホンコン・ファームの生産力にも関係したでしょう。)

一方、前述の『コレクター』誌・第37号の座談会には以下の記述があります。
司会:向う(注・海外メーカー)は一つの型で何個ぐらいつくりますか。
     (中略)
 司会:三十万個位じゃないですか。
 旭: そんなものじゃないですよ。もっとですよ。
 司会:日本は大体どのぐらい抜けるんですか。
 旭: 二十万個位は楽でしょうね。

ここで最後のアサヒ玩具のコメントが、『ウチは二十万個は抜きます』というような、経験的実績を感じさせる表現ではなくて、『二十万個位は楽でしょうね。』という推測表現になっている点に注目したいと思います。つまり、『二十万個』は、アサヒ玩具にとってまだ「未体験ゾーン」である、というように私には感じられるのです。
この雑誌の出た昭和38年(1963)3月には、既にモデルペットNo.1クラウン、No.2マスターライン、No.5ブルーバード、No.6スカイラインなどは「あっせんコーナー」のリストから落ちています。これらの品番の発売は1959年10月から1960年7月ですから、約3年間生産して、各品番とも20万には届いていない、ということでしょう。さらに言うと、これらの金型は後にシート付きになったり、パトカーや救急車になったわけですから、それらをひっくるめた総キャスティング数として「20万」という数字があげられているとすると、20万はおろか、10万にもなっていないのではないか、と私は推測します。
 


問題はアンチモニー製モデルの生産量です。
目安となる数字としては、1日100個程度(モデルカーズ・2001年3月号・39P/ミニチュアカー考古学・旧版52P/同新版102P)というものがあります。(ただしこれらの記事では、アンチモニーの融点が700〜800℃になっていて、私が調べた数字とは全く異なります。また「考古学」旧版では「100個」になっているものが、新版では「1000個」になってしまっていて、これは明らかに「100個」の誤植でしょう。)
この当時は週休は日曜日だけですから、一つの協力工場が年間300日フル稼働して、約3万個という数字になります。
金型が増えれば生産数は増しそうですが、注型・取り出し・バリ取り・研磨など全て手作業でやることを考えると、一つの工場の生産力は、金型数が増えたからと言って、正比例して伸びるとも考えにくいのです。

私はファインモデル初期のフェアレディ・パトカーや、川端企画製コスモスポーツのパトカー(いずれもアンチモニー製)を持っていないので、イケダ渋谷店で『再生産はしないんですか』と聞いたことがあるのです。その答えは、『ほとんど家内工業状態なので、新製品企画があると、そちらの生産で手いっぱいになってしまい、以前の金型の再生産まで手が回らない。金型がなくなってしまったわけではないので、いつか時が来れば作ることもあるでしょう』というものでした。

以上を総括しての私の推測は、
◆ダイキャスト製モデルペットで、品番あたり約5万〜10万個以内
◆アンチモニー製ミクロペット/フェニックスで品番あたり約1万〜5万個以内
です。(全然間違っていたらごめんなさい。)
そしてこれらはあくまでも生産数(工場出荷数)ですから、子供たちが遊んでツブしてしまったものを除いた現存数は、約10分の1というところかと推測します。

当時のミニカーは現在の価格でどのぐらいか?


1960年当時のミニカーが、現在の価格に換算するとどの程度か、ということをちょっと検証してみましょう。
貨幣価値の換算というのは、なかなかむずかしいのですが、「初任給」をはじめとする当時と現在の物価で比べて見る、という方法が基本のようです。

ちなみに、1960年の物価として以下のような資料があります。大卒初任給・13,030円、郵便葉書・5円、封書・10円、理髪料(最低で)160円、かけそば〜かけうどん・30円、ラーメン・30円、コーヒー50円。

2003年の大卒初任給(平均水準・事務系)は202,330円で、これだと15倍になってしまいます。ラーメンも300円のを探すのは大変で、やっぱり450円で15倍でしょうか。

大盛屋のPHE-2の「セドリックバン」は1962年発売当時320円なので、15倍すると4,800円、10倍で3,200円になります。やっぱり意外に高いですね。丁度現在のエブロ」や「ミニチャンプス」の価格の感じです。

このページの冒頭の画像に写した「セドリックバン」は、当時この「320円」で母親に買ってもらったものですが、今で言う「5,000円のものを買ってもらった」という意識はないんです。だから実感としては,2000円〜3,000円の感じ、ミニカーに関しては10倍が適正なのではないでしょうか。当時30円ぐらいのプラモデルを文房具屋などでたくさん売っていましたが、これなんかは子供が自分のお小遣いで買える値段でした。
コーギーの高いものなどは、それこそクリスマスでもなければ買ってもらえませんでした。(当時のプリンス・グロリア・スーパー6の実車価格は119万円になっていて、10倍で1190万、15倍で1785万という換算価格になってしまいます。)

しかし、現在のアンチモニー製モデルはほぼ約1万円していますから、少量生産のアンチモニーで採算を取ろうとすると、単価設定が上がってしまうようですから、大盛屋がこの当時320円(高くても4800円相当)で採算が取れていたのかどうか、極めて心配です。そして結局大盛屋は終焉を迎えたことになります。

上の画像は、『コレクター誌』第37号(1963年3月)上の「あっせんコーナー」に掲載されている価格(おそらく定価)で、モデルペットは100円台後半から200円台の価格設定で、フェニックスシリーズよりも割安であることがわかります。『コレクター誌』の事務局はアサヒ玩具内にあったため、大盛屋の商品は「あっせん」してくれませんでした!!
 


ダイヤペットの米澤玩具は、大盛屋の金型と協力工場を引き継いだ後、当初は自社企画製品もアンチモニーで作っていましたが、やがてダイキャスト鋳造にシフトしていきました。
なぜ大盛屋は、最後までアンチモニー製法にこだわったのでしょうか。「銀の比重に近い重量感と風合い」「精密な彫刻が可能」「メッキの美しさ」といったクォリティにこだわったから、という見方もできます。
しかし冷静に見れば、ダイキャストの精密金型の製作、融点の高い亜鉛合金用の高圧キャスティングをこなす設備を協力工場に入れてもらう、あるいは新しいダイキャスト製法を含めた複数の協力工場をハンドリンクする、といった体力がともなっていかなかったのではないか、と考えざるを得ないのです。

ヨネザワ・ダイヤペットは、その後協力工場がたくさんあり過ぎて、品質が一定しない、というようなことをさんざん言われたわけですが、逆に言うとヨネザワ本体は企画・開発に徹し、その生産は協力工場に委託するという方式を確立したわけで、それだけの力があったということなのだと思います。

車種選択、実車のマイナーチェンジへのこまめな対応、スケールモデルとしてのプロポーションの重視、といった、大盛屋のモノづくりポリシーとして評価される点はたくさんあるのですが、以上で見て来たように、アンチモニー素材の選択や、ドア開閉などのアクション重視に移行しなかったことなどは、積極的な選択というよりは、様々な経営環境によって強いられた選択の結果の積み重ねだった、と言えるのではないでしょうか。つまり、あえて「重厚なミニカーづくり」を指向したわけではなくて、そういうミニカーを作ることしか大盛屋にはできなかったのです。

「現在の市場」が「現在のブランド」を支える


現在では、新しいブランドによってかなりの数のアンチモニー製モデルが作られています。こうしたブランド自体がコレクター向け少量生産のため、ダイキャスト金型製作のコスト負担を避けていることも事実ですが、大盛屋や初期ダイヤペットのアンチモニーの風合いをリバイバルさせようとするねらいがあることも明らかだと思います。それは車種選択にも表われています。

◆画像上段は、H31系〜130系セドリック
◆画像中断は、230系〜330系セドリック(330は樹脂モデル)
◆画像下段は、S40系〜HA30系グロリア(HA30のパトカーは樹脂製モデル)

これらのモデルが入手できる現在では、必ずしも大盛屋や初期ダイヤペットの入手にこだわる必要はない、と言えます。逆にこれらの新しいモデルも安価ではない上に、うかうかしているとすぐに品切れになってしまうので、新しい製品をたくさん買うお金を我慢して、少数のヴィンテージを入手する、という考え方もあるかと思います。それは各コレクターの自由です。
 


でも、現在の、20代・30代のコレクターの方々にひとつだけお願いがあります。若いコレクターの方は、いま現在の市場・いま現在のブランドを支えてあげてください。
いまのコレクターが大盛屋やモデルペットのミニカーにどんなに高いお金を払っても、大盛屋やモデルペットはもう蘇りません。そのお金は大盛屋やアサヒ玩具の収益にはもうならず、新しい開発投資に回ることはないのです。

現在のコレクターは現在のブランドを支えてあげませんと、また「ヨネザワ時代のダイヤペットは良かった」「昔のダンディは良かった」といった悪循環に陥ってしまいます。ですから、新しい製品を買ってあげてください。これは特定のメーカーを応援したい、ということではなくて、日本のミニカー市場全体の持続的成長のためには不可欠なことなのです。

ただ、トミーも、エポック社も、アガツマも、ミニカー事業だけで成り立っていない総合メーカーですから、もしミニカー事業が不採算になっても会社ごと倒れてしまうことはなく、「ミニカー事業から撤退する」という選択肢を取ることでしょう。(2004.2.25)

追記


◆本文中で、大盛屋は「最後までアンチモニー製法にこだわった」と書いたのですが、引用した『コレクター』誌・第37号の「新製品」コーナーに、今後大盛屋は『資材をアンチから亜鉛ダイカストに切換えボンネット開閉等のアクションを採用して発表する方針』との記載があり、新製品の「Eタイプ・ジャガーXK」(PHE-23)は始めての亜鉛材ダイカストである、としています。

中島登著『1955-1998国産ミニカーマニュアル』55Pには、このジャガーがダイキャストである、という記述はありませんが、『ややボテッとした仕上がりになってしまった』と表現されています。

ネコ・パブリッシング『国産ミニチュアカー考古学』新版97Pにもダイキャストである、という記述はありませんが、『この製品に限ってボディの材質が悪かったのか、経年変化によるシーズン・クラックが発生しているものが多い』と表現されており、他のモデルとの何らかの材質の違いを予感させるものとなっています。
(この金型はダイヤペットに継承されました。)

◆同様に、本文中で「大盛屋ではドア開閉を実現していない」と書いたのですが、PHE-29の「メルセデスベンツ300SL」で、はじめてドア開閉は導入されていました。お詫びして訂正いたします。そして、上記のジャガーの件と合わせて考えると、このメルセデスも同一協力工場の手になるダイキャスト製なのではないでしょうか。
実際は比重測定でもしてみなければわかりませんが、おそらくそう思います。

◆モデルペットの製造元について、本文中の表記では「アサヒ玩具」、広告では「旭玩具製作所」になっていますが、株式会社旭玩具製作所は、この後昭和38年中に「株式会社アサヒ玩具」に商号変更したようです。

◆このページをアップした後、「kohkkc」さんから、モデルペット・No.8オースチンA55は発売期間3年で生産台数は6万台(モデルペットで最も稀少なモデル)。No.1トヨペットクラウンは13万台(ただしそのうち10万台は「カメラ祭り」での景品配布で、市場流通分は3万台??)生産された(『コレクター』誌・第102号より)、という情報をいただきました。この場を借りて感謝申し上げます。
ということは、モデルペットは6万〜15万台に上方修正でしょうか。本文は一応現在のままにしておきます。

◆敢えて間違った情報を書く気はないのですが、次々に新情報が出ますので、気の付いた時点で補足・訂正させていただきます。昔のミニカーについての情報は全く「無い」わけではなくて、散逸してしまっており、統合・集約されていないだけであることが実感されます。何かご存知のことがありましたら、お知らせ・ご指摘いただければ幸いです。(2004.2.27)

「アサヒ玩具」のその後


ちょっとした「ついで」がありまして、「アサヒ玩具」の商業登記簿の謄本(閉鎖謄本)を取ることができました。
昭和42年に、法人登記規則(昭和39年法務省令第46号)によって登記用紙が移記されているために、「モデルペット」を生産・販売していた頃の事業目的欄・役員欄は、現在の謄本には出て来ませんでしたが、いくつかの事実が確認できました。

◆昭和23(1948)年8月30日・会社設立
◆昭和42(1967)年7月24日・昭和39年法務省令第46号附則第4項の規定により登記簿を
 移記
◆昭和43(1968)年4月30日・資本金を600万円から1800万円に増資(8月28日登記)
◆昭和46(1971)年4月30日・資本金を3600万円に増資(47年2月25日登記)
◆昭和53(1978)年4月22日・「株式会社アサヒ」から「株式会社アサヒ玩具」に商号変更
 (6月19日登記)
◆平成元年(1989)12月3日・商法第406条ノ3第1項の規定により会社解散(12月4日登記)
◆平成3(1991)年6月20日・会社継続手続き・及び「株式会社アサヒ玩具」から別商号に
 変更(平成11年9月1日登記)
◆平成11(1999)年6月30日・代表取締役1名・取締役3名・監査役1名・計5名就任
◆平成11(1999)年8月10日・本店所在地を、東京都台東区蔵前2丁目7番2号から、台東区
 内の別所に移転(9月1日登記)

「モデルペット」No.37のホンダN360(1967年11月発売)から、No.38クラウン・スーパーデラックス(1970年2月発売)までには2年3カ月の空白期間がありますが、この期間がちょうど上記1968年の増資時期にあたっています。おそらく、ダイキャスト・ミニカーの生産継続を前提に、経営の立て直しをはかったものと考えられます。
その後、1970年2月のクラウン(MS50系)から、1973年12月のNo.54セドリックHTまでは、バリエーション・モデルやバイク・モデルを含めて22点の発表があり、この期間内には、1971年4月末の増資があります。そしてこの増資は、No.38のクラウンの発売(1970年2月)から、No.39のクラウンの発売(MS70HT・1971年12月)までの間の、1年10か月の2度目の空白期間中に行われています。
この2回の増資については、既存の株主以外の個人・法人からの出資をあおいだ可能性もあるかと思いますが、その点は登記簿の記載事項の中には出て来ません。

ネコ・パブリッシング『国産・ミニチュアカー考古学』新版84Pには、以下の記述があります。
『昭和48年に発売された日産セドリックを最後に、ダイキャスト・ミニカーの世界から撤退していったのである。その後もソリッド等の輸入業務は継続していたが、昭和54年に倒産し、その歴史にピリオドを打った。』
この記述と突き合わせて考えますと、おそらく1973年のダイキャスト・ミニカー生産撤退後に、いったん「アサヒ玩具」から「アサヒ」に社名変更、ソリド等の輸入業務を継続。1978年に再び「アサヒ玩具」に商号変更するものの、1979年頃に事業継続が困難になったものと思われます。
(アサヒ玩具は、既に昭和38〜40年頃の時点で、「モデルペット」の製造・販売の一方で、コーギー/ソリッド/伊マーキュリー/米モノグラム/米AMTなどの日本総代理店業務を行っていました。英・仏ディンキーは、株式会社 國際貿易の扱いでした。)
 
『国産・ミニチュアカー考古学』で言う1979年の「倒産」後も、会社組織は解散することなく、休眠状態で存続していたようですが、1989年に、商法第406条ノ3第1項(休眠会社の整理)の規定によって解散しています。これは会社側からの申請によってではなく、登記官の決定で行われるものです。
しかしその後、上記のように、会社の継続、商号の変更、役員の就任、本店の移転等の登記が行われ、現在も別社名で事業を継続中です。

この商号変更後の会社は、「玩具」の製造・販売とは異なった事業目的の会社であるため、新社名や移転後の本店所在地などの公開は差し控えさせていただくことにしました。
旧アサヒ玩具関係者様のご努力に敬意を表しますとともに、新しい事業のご発展を心より祈念いたします。

 


なお、「株式会社 大盛屋」の登記簿謄本(閉鎖謄本)の申請も同時に行ったのですが、東京法務局台東出張所管内で、「株式会社 大盛屋」(旧商号大盛屋酒井通玩具株式会社)の登記に関する記録は発見できませんでした。
大盛屋の広告では、所在地を「東京都台東区浅草駒形1の7番地」としていますが、おそらく登記上の本店所在地が、これとは別の場所になっていたのかもしれません。
例えば実質的な本社機能は玩具製造・卸のメッカであった台東区内に置きつつも、本店所在地は他の場所の創業工場などに置いたままにしている、といったことがあり得るからです。

※台東区浅草駒形一丁目・二丁目は、昭和39(1964)年に新住居表示の実施により、「台東区駒形一丁目・二丁目」となりました。
「駒形」と旧「浅草駒形」は同じ町域を占めるものの、旧「浅草駒形」が南側を一丁目、北側を二丁目としていたのに対し、現在の「駒形」は国道6号線(江戸通り)の西側を一丁目、隅田川沿いの東側を二丁目としていて、対応していないようです。登記が発見できないのは、所在地が旧住居表示のためではありません。

あるいは、上記アサヒ玩具の例のように、昭和42(1967)年頃、昭和39年法務省令第46号附則第4項の規定により登記簿が移記された際に、それ以前に解散していた法人の登記簿が失われたのかもしれません。大盛屋の活動は、1964年12月のPHE-50・いすゞベレットGTの発売がほぼ最後で、1965年8月にはダイヤペットが発売されているからです。40年の時間のベールはなかなか厚いようです。特に東京オリンピックのあった昭和39(1964)年前後に、経済・社会制度、道路交通などの大きな転換期があったことが実感されます。

いずれにしても、本当は大盛屋の経緯の方に興味があっただけに残念でした。そういう目で見直して見ると、大盛屋のパッケージには住所などは何も書いていないのです。製造物責任などでの出所表示義務が何も無かった時代を物語ります。追おうとしても、謎はまた靄の中に逃げてしまうようです。何か旧大盛屋が調査されることを拒んでいるのではないか、とさえ思えて来ます。(2004.4.18)

前のページへ
体験的ミニカー論トップへ

次のページへ
ホームへ